20世紀的脱Hi-Fi音響論(延長13回裏)

 我がオーディオ装置はオーデイオ・マニアが自慢する優秀録音のためではありません(別に悪い録音のマニアではないが。。。)。オーディオ自体その時代の記憶を再生するための装置ということが言えます。「EMIクロニクル」は、アメリカ製フルレンジでモノラルのサブシステムを再構築したのに、英EMIのサウンドに目覚めたオーディオ珍道中が綴られています。
EMIクロニクル
【嗚呼、霧の倫敦(ロンドン)】
【クレデンザの隠し子?】
【超Hi-Fi狂想曲】
【BBCとの婚約解消劇】
【蜜月やいずこ】
ローファイ狂騒曲へ→
自由気ままな独身時代
(延長戦)結婚とオーディオ
(延長10回)哀愁のヨーロピアン・ジャズ
(延長11回)PIEGA現わる!
(延長12回)静かにしなさい・・・
(延長13回)嗚呼!ロクハン!!
(試合後会見)モノラル復権
掲示板
。。。の前に断って置きたいのは
1)自称「音源マニア」である(ソース保有数はモノラル:ステレオ=1:1です)
2)業務用機材に目がない(自主録音も多少やらかします)
3)メインのスピーカーはシングルコーンが基本で4台を使い分けてます
4)なぜかJBL+AltecのPA用スピーカーをモノラルで組んで悦には入ってます。
5)映画、アニメも大好きである(70年代のテレビまんがに闘志を燃やしてます)
という特異な面を持ってますので、その辺は割り引いて閲覧してください。


EMIクロニクル

【嗚呼、霧の倫敦(ロンドン)】

 恥ずかしながら、モノラル時代の英EMIといえば霧に包まれたような音、そういう印象があった。よく言えば上品なのだが、何か奥歯に物が挟まったような、スノッブな物の言い方が鼻につく、ともかく最後まではっきり言わないのである。同じイギリスでもDeccaは全く逆で、社交的でペチャクチャしゃべる化粧美人。この両者の極端なサウンドの違いゆえに、ブリティッシュ・サウンドは誤解に誤解を重ねているように思う。
 もうひとつの誤解は、イギリスの音楽界そのものに対するもので、他国に比べ自国の音楽文化が弱体化しているようにみえる点である。しかしロンドンといえば、モーツァルトの時代からの一大商業都市で、世界中の音楽家が集まってきた音楽の都である。晩年のハイドンは自分の略歴で最も栄誉あるものとして、オックスフォード大学からの音楽博士を第一に挙げるくらいであった。そもそもクラシック音楽という概念自体も18世紀の英国貴族が考え出した(Ancient Musiks)もので、当時でいえばコレッリやヴィヴァルディ、ヘンデルがそれに相当し、時代が下るに従って古典派、ロマン派とレパートリーを増やしていった。この文化遺産を記録に残そうとしたのが、英HMV〜EMIの本来の強みである。
 このため、英HMVと言えばレコード業界では老舗中の老舗で、失礼な言い方をすれば、アメリカの本家Victorが金に物を言わせて大物アーチストを収録したのに比べ、英HMVはどちらかというと音楽家が自ら評価を得るために録音する、そういう趣のあるレーベルである。ともかくアメリカで赤色と黒でアーチストを区別していたが、英HMVにはそうしたものが無い。あえていえば全てが錦の帯を締めた一級品である。


 こうしたレコードマニアの心にさらに油を注いだのが、大物プロデューサーのウォルター・レッグ氏が起こした協会盤レコードで、普段聞けないレパートリーを先行予約制で数を満たしたところでリリースするというもの。1932年のヴォルフ歌曲集を皮切りに、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集、交響曲全集など、それまでのレコーディングでは考えられない膨大なアーカイヴを築くこととなった。
 戦後になっても、フィルハーモニア管弦楽団の設立、カラヤン、リパッティ、カラス、そして妻となったシュヴァルツコップなど大物アーチストを次々にマネージメントし、後世に残るレコードを残したのだから恐れ入る。マーケティングに長けていて意見をズバズバ言う豪腕なところから、寡作家で芸術肌の人(ミケランジェリ、ポリーニなど)から疎んじられて長期契約に失敗したり、逆に戦後のベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集の収録に2度失敗(ソロモン、ギーゼキング)したことなど、この人らしくない後日談もある。ともかく、戦前からの大看板を背負って大物アーチストと対等に渡り合えたのは、後にも先にもこの人くらいなものであろう。それと共に、1963年にEMIを離れるまでの30年以上に渡るキャリアを通じて、従来の散発的なパフォーマンスに徹していたレコードという媒体に、芸術性と殿堂入りの名誉を与えることのできた功績は計り知れない。

 
左:ジョージ5世とマリー王妃の銀婚式を祝うHMVショップ(1935年)、右:Radiogramのディスプレイ(1936年)

 さらにEMIにおいて楽しみなのが、各国に張り巡らされた支社網での現地録音である。そこでは自由な裁量でレコーディングをできたため、通常の名曲名盤には該当しないレパートリーも多く存在する。実はEMIグループの強さは、米国流儀の利益誘導型とは異なるローカルルールを尊重したところだろう。独エレクトローラ、仏パテ、西イスパヴォックスなど、独自企画で優秀な録音が多く存在する。
 モノラル期の録音を挙げると、ウィーンを中心としてフルトヴェングラーを収録したクルーは、明らかに戦前からのマグネトフォンを使っており、それをわざわざ78rpmのラッカー盤にダビングしたというもの。やや高域の堅い音質は、Decca録音にも負けない艶を持っている。仏パテは名録音技師であるアンドレ・シャルランも加わり、フランス物を中心に洒脱な音を残している。スペインのイスパヴォックスは、技術提供をロンドンから受けていたらしく、ややくすんだ音色ながら静謐な音楽を奏でる。逆に米Voxなどには、明らかにEMI系のクルーを使って録音したものが存在する。各地の録音クルーは新聞でいえば特派員のようなもので、録音の企画さえあれば機材、人材に融通を利かしていた可能性もある。


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ステレオ時代のHMVショップ(1960年代)

 はたしてモノラル期のEMIのビロードのような肌触りは、どこから来るのであろうか。特に木管の中域の艶やかさは、他のレーベルでは得難く、オーケストラでの対話を豊かにしている。声楽での柔らかく自然なイントネーション、ピアノの凹凸のない均質な響き、飴色のバイオリンの音色など、美点を挙げると色々ある。だからこそ、このどんよりした「霧の倫敦の響き」には違和感を覚えるのである。とある英国の老エンジニアは、LPの音を料理に例えて「EMIは燻製で、Deccaは直火焼き」と言ったとか。今となっては煙にまかれて一緒に燻製にならないように用心しなければなるまい。


【クレデンザの隠し子?】

 
蓄音機の女王とも讃えられるクレデンザ。その優雅な音ゆえに、誰もが英HMVの印象と結びつけるが、実はこれが大きな勘違いである。これこそがアメリカン・サウンドに君臨するWE社が、1925年に電気録音方式と共に世界に送り出した刺客であり、デザイン、ネーミング共にヴィクトリア趣味に彩られているが、立派なアメリカ製の蓄音機である。それ以前の蓄音機の周波数特性が中高域のしゃくれ上がったカン高い音なのに対し、クレデンザのそれは低域から中高域までフラットに再生できる音響特性を持っていた。これは一般的に考えられているヨーロピアン・サウンドと同じ志向であって、むしろ古い英グラモフォンの音がカン高い音で調整されていたことにも気付かされるのである。ではHMV純正の蓄音機はというと、少しカン高さを残しながら低音の増強を図ったバランスを取っており、両者の仲立ちをする折衷的なスタイルであったことが判る。



Orthophonic Victrolaの取扱説明書(1926)
この時代のアメリカがヴィクトリア趣味の最期だったことが判る



従来型(破線)と新しいOrthophonicシステムの再生特性の比較(1926年)
100〜4000Hzをフラットネスに拡張している




Western Electric 1B ダブルボタンマイクと特性
基本的にフラットな特性をもっている

 一方で、同じ時期にトーキー用のマイクとしてよく使われたのが、ドイツのReisz社が開発したカーボンマイクで、1930年代のBBCやPatheスタジオで使用された。特性は高域の子音が明瞭に録れるようにできており、以下の光学録音でもその良さは十分に出ている。HMVの録音風景でよく見られるWE製ボタンマイクは、これとはかなり違うフラットネスであることに注意したい。


ロンドンのパテ・スタジオで収録するAl Bowlly(1930年代)
Marconi-Reisz製カーボンマイクを使用

BBCでも1935年頃まで使われたという


Marconi-Reisz製カーボンマイクの特性
かなりの高域上がりだがラジオやトーキーでは優位

 ここでブリティッシュ・サウンドにみる2つの潮流が見えてくる。つまり1900年から続く高域の強い音調を好むグループと、1925年以降の恰幅の良い音調を好むグループである。戦後のスピーカー・メーカーで言えば、カン高い音の代表はLowtherであり、柔らかい音の代表はGoodmannである。TANNOYやQUADはこのふたつの中間といったところだろう。よくイギリスのオーディオは典雅なヨーロピアン・サウンドと評されることが多いのだが、実はとてもバラエティーに富んでいるのである。そしてTANNOYを民生用のエンクロージャーそのままで使用していたのはDeccaのほうで、EMIは響きがタイトなLockwwod社のバスレフ箱を使っていた。



 電気録音初期の英HMVが、クレデンザを中心とするWEサウンドと重なるのだが、一方の米Victorのほうはどうかというと、例えばカザルスのチェロを聴く限りでは同じようなトーンをもっている。大きく違うのはオーケストラ作品の録音で、米Victorは直接音を多く含みダイナミックな音を志向するのに対し、英HMVはホールの響きを混ぜた柔らかい音で収録している。このような傾向は、1931年のEMI創設において、アビーロード・スタジオを立ち上げる際には、当時開発したてのWE47型コンデンサーマイクと共に、あきらかにWEスタイルのダイナミックな録音に変貌を遂げるのである。

 
EMI アビーロード・スタジオの除幕式(1931年)
エルガーの指揮で管弦楽を披露
録音にはWE 47型マイクロフォンが3本使われた




 その一方で、WE製のカッターヘッドでプレスしたレコードは、初回プレス250万枚まで1枚につき¢1の特許料を請求されたため、国際的にレコード販売しているEMIにとっては重たいものとなっていた。これに加え構造が繊細で故障も多かったWE47型マイクは、同時期にBlumlein博士により開発されたムービングコイル方式のHB1型マイク(開発者のHolmanとBlumleinの頭文字をとったといわれる)へと徐々に変わり、おそらくWEとの契約更新を打ち切る1935年あたりから、HB1B型マイクの芯の強い音へと変わっていく。これはBlumlein博士がもともと英Columbia出身のエンジニアであり、もともとタイトな音が好みであったこともあったと思うが、文献では5kHzを+4dB持ち上げたことでとても好ましいサウンドとなったとあり、ピアノの収録に優れていたらしい。英HMVや仏Patheの幽玄な音が好きな人には、往年のマエストロの再録音が夢から覚めたように感じ気に入らない人が多いのではないだろうか。しかし1936年から開始されたBBCのテレビ収録(Alexandra Palace)ではよく使われたところをみると、出力の高いことからコードの引き回しが長くてもノイズに強いという側面と、中高域の持ち上げはShure社のボーカルマイクと同様にLow-Fi機器でも明瞭度の高い音と感じるかもしれない。今では信じがたいが、このムービングコイル式マイクは非常に高価で、BBCのリボン式マイクが£9だったのに対し£40もしたという。考えてみればリボン箔はデリケートながら材料費はあまり掛からず、ムービングコイルは振動板とコイル、エッジサスペンションなど結構な組み付け精度が要求される。1930年の初期型HB1Aはサスペンションの調整がうまくいかずにコイルが擦ってしまい、バイノーラル収録の実験で思ったような成果が得られなかったと云われる。このマイクはHB1Eまでバージョンを重ね、1955年頃まで使われた。


HB1B型ムービングコイル式マイク


左:ファッツ・ウォーラー(1938年)、右:カスリーン・フェリアー(1940年代)



BBCテレビでのHB1型マイク(1946年頃)

 こうして、EMIのサウンドには、@英HMV-Patheの柔らかいトーン、A米WEのキレのあるダイナミックな音、BBlumlein氏の録音技術の改革、C戦後のドイツのマグネトフォンの技術、等々が交錯しており、世界一のレコード会社ならではの複雑な綱引きがあったと言える。これらのEMIという巨大なジグソーパズルの駒を巧く組み上げる作業が難解きわまるのである。




HMVショップの試聴ブース(1950年代、ロンドン)
こちらは78rpmで自由に試聴


 
33〜45rpm盤は買った人だけ試聴?
 
 さらに難解きわまることとして、イギリス人に特有のSP盤への愛着も挙げられよう。五味康祐「オーディオ巡礼」には、1963年にイギリスを訪れたときのこととして「英国というところは、電蓄に対しては大変保守的でケチンボな国である。アメリカや日本でステレオ全盛の今日でさえ、イギリスのレコード愛好家はまだ七十八回転のSP(LPのモノーラル盤ではない!)で聴いている。市販のカートリッジも、SP・LP両用でなければ売れないという。ロンドンにも現在シュアーのカートリッジは市販されているが、V15のU型はおろか、V15すら部品カタログに載っていない。高価なV15など誰も買わないからだ。それほどケチンボな国だ。オルトフォンはさすがに出廻っている。しかし殆ど月賦販売用である。SPU/GTが二十三ポンド――邦貨にして二万四、五千円見当だろう――それを十ヵ月払いの月賦にしなければ誰も買ってくれない。そういう国民だ。」と記してある。この点を考慮して、Decca社の高級ステレオ・コンソールDecolaが78回転盤でも見事な音を奏でると賞賛している。
 このことは何を示しているかと言えば、百花繚乱にみえる英国オーディオ機器のほとんどは、一部の上流階級か海外向けの特産物であり、イギリス国民のお茶の間に届くことは稀であったということ。そして多くの人が電蓄(Radiogram)を愛し、RIAAになった後も78rpm盤を大切に聴いていたのである。QUADでさえ、1967年発売の33型プリアンプ(トランジスター式)に5kHzのハイカットフィルターを装備していたくらいである。こうしたこともEMIのサウンドについて「霧の向こうのような音」と誤解を生む原因となっていると思う。イギリス製のオーディオだから英国プレスのレコードを最高の音で鳴らしてくれるだろうと誰もが考えるが、多くのイギリス国民が聴いたサウンドは、SP録音の延長線ともとれる特性が好まれたといえよう。それでも英国プレスが珍重されるのは、既にEMIの魔の手に墜ちているのである。
 日本でこの誤解に拍車を掛けたのが、SP復刻盤(GRシリーズ)であろう。日本では1957年から発売された一連の復刻シリーズは、SP盤のスクラッチを回避するため、強力な高域フィルターを掛けており、これがカマボコ型で躍動感のない音の原因ともなっている。これが長らくSP録音と云えば帯域の狭い詰まらない音という誤解を深めてきた。最近になって、大元の版権が切れてアーカイヴが開放されたことにより、コレクターによる良質な盤の復刻や、倉庫に眠っていた金属マスターを復刻したりすることも可能になったため、78rpm盤への評価が大分変わってきたと思うのだ。CD時代になって原盤にあるスクラッチノイズに対し寛容になったことも幸いしているかもしれない。

 
1950年代後半のHMVショップ
まだまだ78rpm盤が現役

 モノラル期のリマスターも、21世紀に入ってかなり整備されてきており、当時のマスターテープを当たることや、初期プレスの盤起こしなど、様々な手法を使って聞き比べられるようになった。このことがEMIのサウンドの在り方に光を当て、一人相撲に終始していた本家の正規盤を客観的に検証できる機会が与えられたと思う。結局EMIもマスターテープの再調査や、機材の整備、リマスターの方法などに財力を注ぐようになった。こうしたことが、例えCDでもクオリティの向上が図られ、在りし日のEMIサウンドを再発見する機会になったと思っている。
 こうしてEMIのサウンド面での切り口を様々な角度から検証することができるようになったため、これまで議論の余地のないものと思われてきた演奏への評価も含めて、かなり新鮮な雰囲気で受け止めることができたことは間違いない。改めて「EMIの時代」というものにクローズしていくのも面白いだろう。



【超Hi-Fi狂想曲】

 自国にEMIという巨大レーベルを抱えたイギリスのオーディオ界は、1930年代にある意味異常な発展を遂げる。ともかく戦前において100〜8,000Hzの壁をいきなり突き抜け、ステレオ録音が実行されるなど、20年先の技術がコンシュマー市場で隆起しているのである。
 Lowtherの前身であるPaul Voigtのスピーカーなどはその最たるもので、1933年に開発したユニットは、サブコーン、糸吊りダンパーなど先進的な機能を満載したフルレンジで、Domestic Corner Hornという広帯域ホーンに装着した。最初は特許事務所としてスタートしたVoigt氏のスピーカーは、明らかにハンドメイドの試作品で、まだマルチウェイの実験で10kHz再生が議論されていた時代に、12kHzまでの広帯域再生を実現していた(ランシングのIconicでさえ1937年である)。これに追いつく規格は1945年のDecca ffrrであり、まさにぶっちぎりの発想であった。



Paul Voigtの開発したDomestic Corner Hornとユニット(1934年)

 同じ時期にはテープ録音の創生期でもあり、既に1924年にドイツでテープ録音機を開発したKurt Stille博士はMarconi社と提携し、1932年にBBCに向けスチールテープ録音機を納品した。この当時のスペックは再生周波数100Hz〜6kHz、S/N比35dBというもので、32分の番組収録に25パウンド(約11kg)のリールを装着した。1937年には磁気ヘッドを改良し、帯域を8kHzと伸ばし当時のSP盤のレベルまで追いついたが、米Presto社が1934年にリリースしたアセテート録音機(周波数50Hz〜8kHz、S/N比50dB)に比べ、コスト、性能、ダビングの手軽さなど明らかに分が悪く、1941年に導入した後、20年以上もアセテート録音が使われることになる。ちなみに樹脂テープの開発元の独BASF社でAEG社のMagnetphonを使って最初にテープ収録したのは、1936年のドイツに演奏旅行中のビーチャム/LPOである。不況にあえぐドイツにおいて、当時のイギリスが市場のターゲットであったことは想像に難くないが、その後1938年にオランダ経由でPhilips-Miller製の樹脂テープ録音機が納品されるが、1939年からのドイツとの戦争で関係が途絶えてしまった。




先進技術としてデビューしたMarconi-Stille製のテープ録音機(1932年)


1937年に改良されたテープ録音機の特性
初代のスペック100〜6,000Hzはかなりカマボコ特性でスピーチ用

Presto社 'Model A' 28N:8N録音機×2台(1941年)
最初からダビング機能を備えたこちらが主流になった


 一方で、EMIの録音技師であるAlan Blumleinは1931年の特許を皮切りにバイノーラル録音を発表した。試作段階では光学フィルムに「話しながら左から右に歩く」というものだったが、ステレオ用のカッターヘッドを開発した1934年には、アビーロードスタジオでビーチャム/LPO(モーツァルトのジュピター交響曲)のテスト録音を決行している。このときのステレオ録音方式は双指向性マイクを45度で交差させる方式で、同じ時期のWE陣営が劇場用の3ch方式だったのに対し、家庭用に馴染みやすいシステムを考案したことになり、後の2chステレオ理論を決定付けることとなる。BlumleinはUL回路の開発者でもあり、1942年までの短い生涯の間に歴史に残る多くの発明をした。しかしEMIによるステレオ・レコードの販売は延期され、1950年代まで凍結されることとなる。ちなみにビーチャム卿は、1936年にLPOとのドイツ演奏旅行の際にBASF社(樹脂ベースの磁気テープの開発元)に立ち寄ってAEG社のマグネトフォンでのテスト録音に協力したり、1937年にロンドンのHMVショップが焼失した後の開幕式でスピーチを担当したりと、この時代の先進的なオーディオにかなりの興味を抱いていたようだ。


バイノーラル録音の実験中(背景の壁ににステレオスピーカー)


初期のバノーラル・カッターヘッド(1933年)

 こうした様々な先進技術が1930年代のイギリスのオーディオを席巻したものの、実用まではほど遠いものばかりであった。目の前の戦争の危機が、こうした未来志向を軍事技術へ転換を迫ったと思われる。



 再び世界がイギリスのオーディオに注目するのは戦後のことである。おもなトピックスを列記するだけでも以下のようなものがある。ちなみにEMIがLPを発売するのは1952年からで、それ以前は78rpm盤でのリリースとなり、多くのイギリス人は1960年代前半まで78rpm盤を愛聴していた。

1945年: Decca ffrr規格発表
LEAK  TL/12 "Point One"アンプ
1946年: EMI  Electrogram 3000 高級電蓄(モノラル)
1947年: TANNOY  Monitor 15" デュアル・コンセントリック型同軸2wayスピーカー
Willamson  Williamson回路アンプをWireless World誌で発表
BBC  LSU/10 モニターシステム
Decca  Decola 高級電蓄(モノラル)
1948年: VITAVOX  CN-191 スピーカーシステム
1950年: Decca LP発売開始
1952年: EMI LP発売開始
Goodmann  AXIOM 80 スピーカーユニット
1953年: Garrard  301 3スピード対応ターンテーブル
TANNOY  Autograph スピーカーシステム
QUAD  II型アンプ
1954年: Mullard  5-10 アンプ(EL84使用)
Lowther  TP1 スピーカーシステム
1955年: BBC FM放送開始
EMI ステレオ・テープを量販
1956年: GEC  KT88 真空管
Wharfedale  SFB/3 スピーカーシステム
1957年: QUAD  ESL 静電型フルレンジスピーカー
1958年: EMI ステレオLP発売
BBC ステレオ試験放送開始(AM2波)
KEF  LS5/1 モニターシステム
1959年: SME  3009/3012 トーンアーム
Decca  Decola 高級電蓄(ステレオ)

 これだけ個性派揃いのオーディオ機器が、ひとつの国で、しかも同年代に出揃うというのは、まずもって他に無いだろう。およそ流行というものを顧みず突っ走ってるだけで、これに加え家電製品としての電蓄が加わるのであるから、モノラル期の英EMIを囲む環境は混迷を深めるばかりで、一義的な答えなどない。これらのバリエーションは英EMIの奏でるサウンドに対する回答を、賛否両論を交えて展開しているように思われる。それでは客観的にこれだと言えるものがあるのか? 多分、当のイギリス人でさえ誰も思い付かなかったことだろう。


【BBCとの婚約解消劇】

 ところでどうしても一言付け加えて起きたいのが、BBCとEMIの関係である。多くの人はBBCモニターとEMIの録音を一心同体だと信じている。しかし同じブルムライン方式のワンポイントマイクでの収録だったのは、精々1950年代まで。ステレオLPを発売する前に、EMIはとうにノイマン製マイクを使ったマルチ録音に移行していた。それ以前はどうかというと、アビーロード・スタジオを1931年に立ち上げた際には、録音にはWEが開発したばかりの 47型コンデンサーマイクが使われた。一方で、同じ頃のBBCはGE社のモニタースピーカー、英Marconi社のリボンマイク、米Presto社のアセテート録音機を使用していた。つまりBBCはRCA系からの技術提携を受けており、WE系のEMIとはサウンド傾向が全く異なる。両者が近づいたのは、モノラル中期からステレオ初期に至るわずか5、6年というのが実際である。おそらくBBCがEMIからブルムライン方式のステレオ技術の提供を受けるため、双方の技術交流が行われたと思われる。

 モノラル期からモニターに採用したTANNOYについても、BBCは戦後まもない頃に検討しただけで、EMIがDeccaの後を追って1951年に導入したときとは重なっていない。戦後に開発された小型スピーカーでLorenz社のツイーターを使った経緯も、BBCはParmekoが7kHzまでの帯域しかないため、Lorenz製ツイーターを折衷的に足したのに対し、EMIはホーン型ツイーターは採用せずLorenz社の元の仕様を踏襲している。後にDeccaはDecolaステレオでEMIの楕円フルレンジユニットを採用した。このように対局的に語られるDeccaとは、同じTANNOY製スピーカーをモニターに使うなど、ハードウェアの面ではより緊密な関係にある。
 またBBCが戦後まもなくのドイツ製品を使ったテープ収録に批判的だったことも当時の技術資料から判っている。(これはEckmillerスピーカーに対しても同様である) これに対し、EMIは独エレクトローラのスタッフからマグネトフォンの録音技術をいち早く導入し、1949年からイギリス国内でもテープ録音を行った。
 このように漠然と技術関係が一致していても、時間軸や方法論が噛み合っていないのである。アメリカにはDJという職業があるが、イギリスではレコード業界の権利を放送局が侵さないため、1960年代までレコードで販売している楽曲の放送に制限が掛けられていた。あえて言えば、EMIとBBCの技術陣は、レコード業界と放送業界、民営と国営という違いもあり、微妙に距離を置いていたよう思う。

BBC EMI

LSU/10(1947年)
Parmeko社の同軸型に加え
Lorenz社のツイーターを追加
(ネット上側に貼り付いてる)


Marconi-EMI 31006(1949年?)
Lorenz社ツイーターをダブル使用
最初はHMV高級電蓄に搭載
 

 よくブリティッシュ・サウンドの特徴としてフラットネスが挙げられるが、素直な特性であれば相性が良いというわけではない。日本製に多いフラットな特性のスピーカー(例えばBTS規格のロクハン)ではあまり良い効果が得られない。かつての東芝盤に多く寄せられる意見と似ていて、プレス時にイコライジングしない素直な特性がアダになって、中高域の凹んだインパクトのない音に仕上がっていまうのだ。ただNHKの録音は今の基準でみると音に癖のない良質なもので、オーディオ的には面白くないものの、むしろ実演の状況を巧く捉えているかもしれない。同じことはBBCにも言えるのだが、EMIのサウンドとは若干違うように思う。
 イコライジングをほとんどせずに放送するBBCモニターの特性をみると、ウーハーの800〜2,000Hzの中高域に5dB程度のアクセントを与えていることが判る。フラットネスを旨としながらも、料理としてはやや辛めに仕上げてあるのだ。代わりに高域が大人しく暴れが少ないのである。これは古くは英グラモフォンの蓄音機から続く伝統的な周波数バランスを拡張した結果であり、中域に独特の質感をもたせる秘訣なのではないだろうか。BBCモニターの特性の歴史を紐解くと、1930年代を起点としたアメリカのオーディオ技術に結びついていくのである。


LS5/9のユニットの裸特性(1983年)


Parmeko単体の特性(1947年)
最終形のLSU/10にはLorenz製ツイーターを追加



GEC製フルレンジスピーカーの特性( 1930〜40年代)


1920年代の蓄音機の特性(破線)



 以下はBBCがParmekoを採用する際に比較試聴したTANNOYとEMIの特性だが、上記のBBCモニターの系譜とは異なり、中高域が大人しい特性である。違いはTANNOY(Decca)が高域方向を持ち上げるのに対し、EMIの高級電蓄は高域がなだらかに下降する特性(BBCの感想では暗い音)となっている。このときEMIはKelly製リボンツイーターを採用していたらしく、パワーレンジの必要ない家庭用システムに最適化していたことが判る。EMIは1931年のアビーロード・スタジオ建設時から第二次世界大戦を通じて、技術の保守性が顕著になり、それを突き抜けようとしたDeccaとのサウンド面の乖離が激しいのではないだろうか。イギリス人の合理的な物の言い方からすると、より忠実度が高いということになるが、実のところ最初の基準となった技術からの積み上げに際し、感性的なものがより大きく働いているとも言える。


TANNOY Black 12"(1947年)


EMI Electrogram 高級電蓄(1947年)

 ちなみに1948年のBBCレポートM008に出てくるEMI製のスピーカーとは、楕円ユニット2本とホーン付リボンツイーター(おそらくKelly製)を使用していると記載され、1946年にHMVが開発した3000型電蓄Electrogram De Luxeと呼ばれた機種で、最初のAbbey Roadでのお披露目式についてはGramophone誌1946年9月号に記事が載っている。QUADが最初に開発したコーナーリボンというスピーカーと構成が似ており、30Hz〜15kHzまでの再生レンジを誇った。1948年当時の価格で£395とあり、レッグ氏が最高の再生機器の開発を指示したといわれるのは、おそらくこの機種であったと思われる。この3000型はEMIの技術力を誇示するために、コスト度外視で設計されたせいか、非常に台数が少なかったと思われ、お披露目式の後は1948年にErnest Fisk卿により買い取られ、オーストラリアでレコードコンサートなどに使われた。最初のキャンベラでのコンサートは、シュナーベルとフィルハーモニア管によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番が再生されたと云われ、この時期の録音、リパッティやヌヴーなど1940年代に夭折した音楽家を好む人たちには、ひとつの方向性を示すことになるだろう。この3000型Electrogram De Luxeは1952年のSydney Morning Herald誌で中古販売の広告(£60)が出されたのを最後に、歴史上から姿を消しており幻の高級電蓄といえる。
 実際のところ、EMIでのLorenz製ツイーターの使用は、Kelly製リボンツイーターのコストや保守の関係から妥協したのではないかと思われ、1949年のHMV Radiogram 1609(価格:£103)から搭載された。この時期になるとEMIはドイツ・エレクトローラからテープ録音技術を吸収し、自社にテープ録音機(英BTH社製)を置くようになっていた。カラヤンは戦中からマグネトフォンとノイマン製マイク、Eckmillerモニタースピーカーという組み合わせで、バイノーラル録音の実験に参加していたため、こうした技術に習熟していたし、レッグ氏も優れた録音技術に早くから注目していたと思われる。

 EMIの92390型楕円フルレンジスピーカーは、1960年代のステレオ用スピーカーとして有名だが、1940年代のスタジオ写真からみてもっと早い時期に開発されており、1937年の高級電蓄Autoradiogram 801でほぼ同様のユニット(この時点では励磁型)が搭載されていた。こうした高級電蓄はギニー金貨での価格表示であることから、貴族かそれに準ずる富裕層の持ち物という考えの強いことが判る。EMIがブルムライン博士を先頭に技術革新に邁進していた時期の所産であり興味深いが、それ以前にも1934年にMarconi社が高級電蓄Marconiphone 292で同様のユニットが搭載されていたため、本来はMarconi社が高級電蓄での使用を目的に開発されたユニットを、EMIがモニターに使用したというのが実際だろう。その後のHMVブランドの電蓄にはこのスピーカーがよく使われており、プロフェッショナルな現場でありながらホームユースのための技術開発という側面が強いことが判る。1944年にBBCがM004レポートでこの楕円スピーカーを単体で測定した結果では、4.5kHzにピークを持たせたワイドレンジ・スピーカーであったことが判る。そのときのBBCの評価は、EMIのユニットは高音にピークがあると一蹴しており、GEC製ユニットの2.5kHzにピークをもつ特性と峻別している。一方で、楕円スピーカーにリボンツイーターを付けた高級電蓄Electrogramには「暗い音」という評価なので、あるいはBBCの技術者がEMIを毛嫌いしていたことは想像に難くない。
 同じ時期のDeccaの高級電蓄Decolaは、最初はGoodmann社のフルレンジ+ダブルウーハー、1949年にはTANNOY社の12"同軸2way+ダブルウーハーになっている。おそらくこれらは、アメリカでのLP発売に合わせて製作されており、イギリスの家庭にはほとんど届かなかっただろうと思われる。


Abbey Roadスタジオの5chミキサー(1940年代?)
モニターに楕円スピーカー


EMIの楕円スピーカーの特性(単体:1944年、BBCレポートより)


HMV 801高級電蓄(1937年)
3台の楕円スピーカーを配した大型電蓄



 BBCの大きな功績は、クラシック音楽を良質なステレオ放送で送り続けたことで、ブルムライン方式のワンポイント・マイクによる録音は、ステレオシステムの定位感やサウンドステージの標準化に繋がった。後にブリティッシュ・ロックの優れたミキシングも、こうした文化的背景から生まれたといえよう。つまりイギリスでステレオ録音のノウハウが熟成するまでには、無料で聞ける国営放送の助力が必要だったといえる。ちなみにこのブルムライン方式は1930年代にEMIで開発されたもので、特許の関係も含め自由に使えるようになるまでの間が、BBCとEMIの蜜月であったと思われる。
 その意味では、BBCはEMIの良き継承者のように思われるが、最近になってBBC収録音源が解禁され、市場に出てくるようになって改めて判ったのは、EMIの録音とBBCのそれとは、暖色系では共通しているが、サウンドステージの造りが大きく異なる。BBCモニターとしてLS5/1がリリースされた1960年頃には、BBCはステレオ収録の方法も含め既製メーカーから離れて独自規格を歩み始めており、従来から高域は広く拡散されたほうが良いスピーカーという常識から離れて、チャンネルセパレーションを重視した設計へと移行している。今だから比較して言えるのは、BBCがやや残響が多いながら自然な音場をそのまま収録しているのに対し、EMIは1960年代のステレオ期にアメリカ市場を意識したせいか、マルチマイクによる人工的なバランスが目立つ。

BBC EMI

Coles 4038のステレオ・セッティング
ブルムライン方式で収録

カラヤン/フィルハーモニア管
ノイマン製マイクでマルチマイク収録

 1960年代を通じ、BBCがイギリスの家庭に素直なステレオを送り続けた結果、LPの音質も大人しいものに変化していった可能性も否定できない。1950年代のプレスと1970年代のそれとの違いは、カッティングマシーンの違いもさることながら、好ましいと思われるサウンドの変化も大きいように思う。

 ここまでくると、モノラル期、ステレオ期の両方において、EMIとBBCが異なるスタイルを持っていたことが判る。しかしながら、1970年代以降はこの平行線は解消されたのは言うまでもない。日本のオーディオが一般家庭に根付いたのは1970年代であるから、両者を結びつけることに大きな矛盾はないが、1930年代から1960年代にかけては明らかに結びつかない。EMIとBBCはつかの間の愛をゴシップ記事にされたに過ぎないのかもしれない。


Lockwood製のモニターを使ったアビーロード・スタジオ1 (1970年頃)


ポップス向けにAltec Lancingのモニターを使ったスタジオ2 (1960年代後半)



【蜜月やいずこ】

 ここで英EMIの足跡を辿ると、幾つかの難題がのしかかる。
1925年の電気録音から1952年のLP発売までに、少なくとも戦前で3つ、戦後で2つのジェネレーション・ギャップが存在し、そのどれもがステレオ期に曇り空のようなサウンドポリシーで一括りにされたという過去がある。
  • 1925〜35年の英HMV〜EMIは米WEの録音機材を使用していたが、米Victorとの音質の違いについて説明できる資料がなく、英国風サウンドの実態が判りづらい。
  • 1935年から1940年代に続くブルムライン博士らの録音方式の改革については、全容が判りづらく戦後の録音との溝を埋めることが難しい。
  • 戦後の英国製オーディオ機器の多彩なバリエーションから、本来のEMIのサウンドがどういうものなのかを推測することは難しい。DeccaとEMIの高級電蓄の比較でも同様である。
  • 1960年代初頭のイギリスの状況に倣い、戦前の78rpm盤と戦後のLPとのサウンド面での連続性をもたせることは到底難しい。
  • 1980年代までのモノラル期の復刻盤は、著しいノイズカットのため録音の鮮度が低く、かつ1960年代のコピーテープが繰り返し使用されたため、古い録音への悪いイメージが定着している。
  • Testamentなどのリマスター盤、初期LPの盤起こしなどと、従来の正規盤とに整合性をもたせることは新たな課題となる。(例えばマスタリング・スタジオではモニターにB&Wが使われているなど)
 こうした過去の遺産に対する扱いがぞんざいになったのは、一般的にはステレオ録音を市場で展開したためだと思われているが、EMIは既に1955年からステレオ・テープを量産するほどのパイオニア的な活動もしており、おそらくレッグ氏がEMIを去った1963年以降に顕著になったように思われる。この時代のイギリスは、戦後の復興が遅れて「英国病」ともいわれる慢性的な経済悪化を辿っており、英国民の78rpm盤への執着もそうした経済力の低迷が産み出したともいえる。レッグ氏の不満は、かつてのような大盤振る舞いをできなくした経営陣との確執だろうし、彼の考えるレコードのもつ歴史観との乖離ともいえる。この時点でレコードのもつ有り難さも減り、実際に重量も減ったのだから、やはり悪いときには悪いことが重なるものである。
 こうした問題から何が生まれるかというと、世界一のレコード会社として多彩なアーチストを擁しているにも関わらず、演奏のもつ本来のサウンドが、何か太いクレヨンで塗り潰されているような印象が拭えないのである。ヴィクトリア朝の画家ターナーのような画風といえばいいのだろうか。もちろんこれはDeccaにもあって、本物より美しく響くウィーンフィルなどはその代表例であるし、どの録音もスタインウェイみたいに聞こえるというのは暗黙の了解であろう。こちらはフランスの新古典派画家ダビッドのような感じ。逆にコルトーが録音で使ったピアノのほとんどがスタインウェイであるにも関わらず、プレイエルのように聞こえるというのがEMI。やはりこの課題を乗り越えるサムシングエルスが必要なのだ。しかし両社の高級電蓄は、スピーカーユニットさえ共通していることもしばしばあり、ここからサウンドの違いを説明することは難しい。



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Joseph Mallord William Turner(1775 -1851)


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Jacques-Louis David(1748 -1825)






HMV 1609型Radiogram (1949年)
1946年のElectrogramではKelly製リボンツイーターを使用






Decca Decola (1946年)
ステレオ版ではEMIの楕円フルレンジを使用

EMI No.16ピックアップの特性(1948年)
高域上がりでフィルターが必須

初代ピックアップのゲンコツの特性(1947年)
10kHzまでスムーズに伸びている

EMI Electrogramのスピーカー部(1947年)
高域はなだらかに下降

TANNOY Black 12"(1947年)
おおむねフラットな特性




 今回、英EMIについてアレコレ書く切っ掛けになったのは、アメリカン・サウンドの一翼を担うエレボイで聴いたEMIの録音がことのほか綺麗だった、という単純な理由だった。何と言うか一目惚れなのである。目の詰んだオーク材を奢ってビロードのような光沢に包まれた椅子に座らされたようなリッチな気分。こうした雰囲気は他のレーベルでは味わえないし、この音を中心にトーンを調整しておくと、他のほとんどのソースが落ち着いた感じになる。さすが戦前からスタンダードとして君臨してきたことだけはある。
 個人的な感想だが、モノラル期の英EMIの再生については、アメリカ製品での再生というのもひとつの良識だと思う。というのは、@1950年代の英国製のビンテージ機器で良質なものが少なく、交換部品数も残数がなく修理が困難なこと。Aアビーロードにモニターとして導入されたTANNOYにしても、Deccaのように民生用をそのままスタジオに導入したのとは事情が異なるし、両者のサウンドの違いを説明しがたい。B最終的には戦後のEMIの最も大きなお得意様はアメリカ市場であり、アメリカのオーディオ機器にキャッチアップするように技術改良を重ねていること、などが挙げられよう。
 もちろんジョンブルの心意気がヤンキーに理解できるのか? そういう疑問は常々あった。しかし本心は理解できなくとも、穏やかにコミュニケーションくらいはできるだろう。その結果がこれである。




上はParmeko、下はBaronet(SP8B)


 まず私が現在使っているエレボイのSP8Bは、サブコーン付のメカニカル2wayで、英国であればリチャードアレンのニューゴールデン8に似た音調であり、ともかく暗く響きがちなEMIの音を艶やかに蘇らせてくれる。かといってLowtherほどキレやすい奴でもない。Deccaを鳴らしてもなんとか踏ん張ってくれる。アンプはEL84を使用しており、高域の繊細なヨーロピアンのテイストが少し加わる。BBCのParmekoと比べると、エレボイの暴れん坊の音は辛口が好みのBBC風であることも判る。これもイギリスのオーディオ機器にみられるアンチEMIの発想を展開していくと、なんとなく合点が行くのだ。


  
1952年のシカゴ・オーディオ・フェアで展覧されたBaronet試作機
EMI製ポータブルレコーダーとWilliamsonアンプでデモされた
  
 ちなみに1952年のシカゴ・オーディオフェアで、EMIが開発したてのL2型ポータブル・テープレコーダー(電池駆動型)を紹介する際、10W出力のWilliamsonアンプ(NBC楽団員のDavid Sarser氏がトスカニーニに寄贈したMusician's Amp.と同じ807PP)と、エレボイの8インチフルレンジを搭載したBaronetがデモで協演した。ちょうどEMIがLPの発売と同時にReel to Reelのミュージックテープ販売を始めた時期であり、Baronetのカタログにある理想的なオーディオ環境の一端を示すものでもあった。
 EMIにしてももっと適当なイギリスのスピーカーメーカーもあっただろうが、同じ会場の英国オーディオ機器の輸入商社は、@TANNOY製スピーカー+QUAD製アンプ+米Weathers製ピックアップ、AGarrard製オートチェンジャー+LEAK製アンプ+Wharfedale製スピーカー、等々の組み合わせを展示していたとうことなので、現在知られる黄金の組み合わせが当時からあったことも判る。しかしエレボイのブースは、単なる購買者向けのHi-Fi技術の陳列ではなく、WQXR局のステレオ放送(AM、FM波の同時放送)のスピーカー試聴デモと共に、近未来技術としてEMIのミュージックテープ販売の紹介をしていたことになる。この後EMIは1955年にステレオテープの販売に踏み切ることになるので、多くの米オーディオ誌が注目したこのオーディオ・フェアが、大手レコード会社が取るべき道に手応えを与えた可能性も否定できない。




 EMIの録音の中核は、やはりLP発売の1952からステレオ収録の始まる1955年頃に集中するが、リマスター盤が乱立するフルヴェンのことはさておいて、辺境のレパートリーにこそ味わい深いものがある。これがEMIのもつ奥深いところなのだ。戦前の電気録音では、ボタンマイクのHMV時代、1931年からのEMI(WE47型マイク使用)ではやはり音は異なり、1935年から自社製HB1B型マイクが使われサウンドがさらに変わる。この戦前の3期を一緒に論じると、EMIサウンドへのアプローチは混迷に陥る。

ディーリアス作品集/Geoffey Toye指揮LSO他
1928−29,ロンドン(DUTTON CDAX8006)

作品も作品なので、典型的な霞掛かったHMVサウンドが聴ける。しかしこの上品な質感はなんだろうか。ブリッグ・フェアの冒頭のフルートから朝靄の田舎道を散歩しているような静けさに支配される。ディーリアスの愛弟子による地味だが揺るぎない思いに貫かれた演奏で、キングズウェイ・ホールのやさしい響きに包まれながら安心してディーリアスの世界に浸れる。
ティボー HMV録音集
1929−36,パリ〜ロンドン(APR 7028)

ラテン系の小品を中心に集めたもので、リズムの切れと歌い回しの妙が楽しめる。復刻が優れており鮮烈かつガット弦の質感を存分に聴ける一方で、その分だけ仏パテ時代の幽玄さが減じた感じ。1933年のロンドン・セッションからWE47型マイクに変わり、ホールトーンも加わりピアノの粒だちが良くなるが、ヴァイオリンの音色の軍配は旧式のほうが質感が良い。多分、旧来のボタンマイクの使いこなしと距離を幾分近めにしている点の違いだろう。さらに1936年セッションはEMIのHB1B型マイクが使用され、乾いたギスギスした感じになっている。放送録音である1941年ライブのスペイン交響曲は、素晴らしく情熱的な演奏で、この時期のティボーの総決算のような演奏ぶり。
シベリス 交響曲2番他/カヤヌス指揮LSO
1930−32,ロンドン(KOCH 3-7131-2 H1)

1930年のものは、当時のフィンランド政府が15,000マルクの資金をつぎ込んで英Columbiaに録音させた世界初のシベリス作品集。カヤヌス自身はライプチヒでハンス・リヒターに学んだ人で、シベリス作品を古典的な棒さばきで引っ張っている。あえて言えば英Columbiaの音はHMVとは異なり、アメリカ流にダイレクトな音を収録するもので、後になってEMIに合併されたため誤解されている面がある。1933年はレッグ方式で設立された”シベリウス協会盤”であり、WE47型マイクを使った効果が良く現れて、キリッとした面持ちのサウンドに変わっている。
コメディアン・ハーモニスツ
1930−37,パリ〜ベルリン(EPM 983782)

ドイツの人気ボーカルグループだが、仏グラモフォンへ珍しくフランス語で吹き込んだもの。仏パテの名残を感じさせる柔らかい音で、戦後の仏EMIの高域寄りの音調とは全く趣きが異なる。一般的にこの時代の録音では、男声コーラスはもっさりした響きになりやすいのだが、無難にまとめた復刻だと思う。独エレクトローラのものは盤質が悪いのか、一昔前の録音に聞こえる。
Biguine, Vol. 1-Biguine, Valse et Mazurka Creoles
1929-1940,パリ(Fremeaux & Assosies FA007)


ほとんどがOdeonレーベルの収録で、上のコメディアン・ハーモニスツより色艶がとても良く、在りし日のパリでのビギン・ブームが偲ばれる。世界恐慌の後の右翼勢力の台頭による政治的混乱に続き、1940年からのナチスドイツ占領により、パリのレビューを彩っていた移民色は一気に減退した。さらに戦後になると植民地の独立運動とともに移民社会への視線は冷たくなる一方で、シャンソン一色に染まったのだ(映画「シェルブールの雨傘」を観ると歴然としている)。下のピアソラのタンゴとの比較で良く判るが、クラシックほど録音年代の差は感じられず、何よりも移民クレオールたちが奏でる音楽の勢いがよい。色彩感の強い木管、シンプルでキレのいいパーカッション、おだやかな金管など、混血文化の粋が一気に見渡せる。どこからか音楽が聞こえ、次第に踊りの輪に加わっているかのような感覚にとらわれる。この押し付けがましさのなさは、ジャンゴ・ラインハルトにも通じる、ヨーロッピアン・ジャズの系譜に当てはまる。
バッハ マタイ受難曲/ラミン指揮 聖トマス教会聖歌隊 ライプチヒ・ゲバントハウス管
1941,ライプチヒ(CARIG CAL50859/60)

戦前の独エレクトローラの録音では、ほぼ最後にあたる録音。メンデルスゾーン時代からの慣習でコンサート作品として伝承されたこの曲を、この時代には珍しくボーイソプラノを含む聖歌隊(ラミン自身がカントールを務めていた)を起用するなど、この時代なりのバッハ復興の考え方が判る。ドイツ国内に名だたる歌手の少なくなっているなかで、福音史家にカール・エルプ、イエス役にゲルハルト・ヒュッシュを充てるなど万全の配役で挑んだもので、至って正統派の演奏である。カール・エルプはメンゲルベルク盤でも福音史家を務めているが、こちらではカッチリと決めている。録音は同時代のテレフンケンと比べると、外資系レーベルゆえかノイマン製マイクやマグネトフォンが使われず、EMI製のHB1型マイクが使われたこと、独唱者5人がひとつのマイクを囲う形で遠目に収録しているので、旧ゲヴァントハウスの残響を多めに拾っていることなど、色々と興味深い。
アストル・ピアソラ/ブエノスアイレスな夜
1945−56,ブエノスアイレス(東芝EMI TOCP-50668)

OdeonレーベルのSP盤復刻で、ピアソラが自分のオルケストラを結成した初期の演奏を収めている。いわゆる伝統的なタンゴ楽団のスタイルから、次第に自分のスタイルを模索していく時期にあたるもので、舞踏曲としての形式はまだかなり残している。録音は中域のたっぷりしたEMIサウンドで、おそらくこの時期の録音で最良の状態を保っている。
コルトー 戦後録音集
1947−54,ロンドン(EMI 0946 351857 2 0)

ショパン、シューマン、ドビュッシーなど昔から得意にしていた作品を録音したもの。ほとんどはLP以前の1940年代末の録音だが、奇跡に近い復刻状態で、19世紀のサロンに迷い込んだかのような堂々とした弾きっぷりに脱帽。この当時、ロシア系やリスト系の技巧的なピアニストがほとんどを占めるなかで、コルトーの演奏は弱めの打鍵でサラッと弾く奏法であり、この状態で録音として残っていたのが不思議な感じである。ちょうどコルトーは戦時中のナチスとの関係で演奏活動が途絶えていた時期で、世評でいう技巧の衰えがどうのという以上に、ピアノを弾く喜びに満ちた表情が印象的である。
セゴビア 1949年録音集
1949,ロンドン(Testament SBT1043)

セゴビアが戦後EMIに録音した小品集で、後の米Deccal時代の録音に比べ、技巧が安定しており、立派なポートレートになっている。おそらくEMIがスタジオにテープ録音機を置いたことによる招待だったのだろう。しかしこの頃のEMIの量販はSP盤であり、一部に復刻音源が含まれている。録音は、ナイロン弦を使い出した頃のセゴビアの丹念な表情付けを良く捉えており、EMI特有の濃い中域の音が肉汁のようにジュワっと染み出すようだ。最後に収録されたカステヌオーヴォ・テデスコのギター協奏曲では、木管の美しい響きが華を添えてとても楽しめる。
フルトヴェングラー/グレートEMIレコーディングス
1948−54,ウィーン他(EMI 9 07878 2)

21枚組のBOXセットは、ほとんどがSACDで発売されたリマスター音源と同一なので、カタログ的なニュアンスで聴くとしても、かなりお徳用と思える。注目したいのは、1949〜54年に行われたムジークフェラインでのセッション録音で、この時代のウィーン・フィルの上質な響きが記録されている。ORFの録音と比べても残響音を多く含んだユニークな音で、有名な「英雄」交響曲はともかく、「田園」「ハンガリー舞曲」「ティル」「驚愕」など、フルトヴェングラーとしてはイマイチな演奏のほうが、ウィーン情緒の色合いが濃くなるのも面白い。個人的にはベルリン・フィルとのライブのほうが、フルヴェンらしく自由闊達な感じで好きだが、ウィーン・フィルのポートレートと考えれば、意外に素直に受け入れられる。
モーツァルト ホルン協奏曲/ブレイン カラヤン指揮 フィルハーモニア管
1953,ロンドン(EMI 9 65936 2)

この時期のEMIの管弦楽録音を代表するようなエレガントな音で、ブレインの天衣無縫なホルンといい、キングズウェイ・ホールの木質の響きが巧くブレンドされて美しいことこのうえない。
レハール 喜歌劇メリーウィドウ/シュヴァルツコップ クンツ アッカーマン指揮 フィルハーモニア管
1953,ロンドン(東芝EMI CE30-5562)

モノラル録音でのオペラは、ともすると面白みに欠けるものだが、この録音は劇場の再現というよりは、一種のラジオドラマのように仕立てた点で好感の持てるもの。シュヴァルツコップが夫君のレッグをそそのかして作らせたのではないか、と思えるほど、通好みの面白い配役である。指揮者、歌手共にドイツでオペレッタ経験の豊富な人を集めて見事なアンサンブルを展開しているなかで、そこにロシア系のニコライ・ゲッダを伊達男に起用するなど、遊び心も忘れない心憎さ。録音後の打ち上げまで想像したくなる楽しさに満ちている。
カラス コロラトゥーラ・オペラ・アリア集
1954,ロンドン(東芝EMI TOCE-55472)

並み居るカラスのEMI録音のうち何を選ぼうかと悩むのだが、個人的にはガラ・コンサート的なものが、純粋に歌唱を楽しむ意味で好きだ。それもやや大味な本場イタリアの歌劇場での収録よりは、フィルハーモニアのように小粒でも伴奏オケに徹したほうが聞きやすい。ここでは戦前の録音を良く知るレッグ氏の良識がうまく機能した感じだ。本盤の収録曲は、リリコとコロラトゥーラのアリアを、カラスのドラマティックな個性で貫いた非常に燃焼度の高いもの。これが全曲盤の中だと役どころのバランスを失いひとり浮いてしまうところだが、単独のアリアなので全力投球しても問題ない。老練なセラフィンのオケ判が華を添える。
サン=サーンス ピアノ協奏曲全集/ダルレ
1955−57,パリ(仏EMI 5 69470 2)

戦前から近代フランス音楽を得意とする女流ピアニストのジャンヌ=マリー・ダルレをソリストに迎えた録音。サン=サーンスのピアノ協奏曲は、同時代のリストやルビンシュタインらと互角に渡り合ったビルトゥオーゾの典型でありながら、フランス音楽の範疇に入れられるため、当のフランス人ピアニストがあまり見あたらないという不幸な関係にある。ダルレは晩年のサン=サーンスにも直接教えを受けるなどの縁もあり、1926年には既に全曲演奏会を行ったというから、この時期に収録したのは機が熟したというべきか。伴奏を務めるルイ・フレスティエもあまり知名度は無いが、ギルマン、デュカス、ダンディに作曲を学ぶなど、各曲のシンフォニックな性格を知り尽くした知的なサポートで好演。フランスEMIの明るく澄んだ音調とダルレの均整の取れたタッチとが巧くバランスした良い録音である。
モンポウ作品集/Gonzalo Soriano、Carmen Bravo
1958,バルセロナ(EMI CDM 7 64470 2)

スペインのイスパヴォックスによる、この頃まだマイナーだったモンポウだけのアルバムという意味で珍しい録音。後半を演奏するCarmen Bravoはモンポウの30才年下の奥さんで、録音の5年前に結婚したばかり。この頃のスペイン音楽というと、ファリャやロドリーゴ、あるいはグラナドスという色彩感の強い作品が好まれたが、この録音はスペイン人が本来もっている静謐で内向的な面を象徴するもので、家庭のなかで静かに見つめ合う夫婦の団欒を、柔らかな響きが日だまりのように包み込んでいる。なんとなく幸せにしてくれるアルバムである。
ラヴェル ピアノ曲全集/ペルルミュテール
1955,パリ(Vox CDX2 5507)

おそらく仏Patheのスタジオで録音したと思われるもののひとつ。明確なことは、ペルルミュテールは1956年のモーツァルト生誕200年祭に合わせて、Patheがギーゼキングと被るためと二の足を踏んでいたところでVoxが録音企画を持ち出し、モーツァルトのピアノ・ソナタ全集をパリのパテ・スタジオで録音している。この関係からすると、既に現地でのコネクションは十分に成立していると思われる。ペルルミュテールはラヴェルに直接師事した数少ないピアニストで、ポーランド系でありながらフランスのテイストも加味した安定した奏法が聴ける。



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