20世紀的脱Hi-Fi音響論(延長10回)

 我がオーディオ装置はオーデイオ・マニアが自慢する優秀録音のためではありません(別に悪い録音のマニアではないが。。。)。オーディオ自体その時代の記憶を再生するための装置ということが言えます。「哀愁のヨーロピアン・ジャズ」は、これまでジャズなどに全く興味を持たなかった筆者のボケとツッコミが綴られています。


哀愁のヨーロッピアン・ジャズ
【ヨーロピアン・ジャズ事始め】 【哀愁というキーワード】 【未完成のパズル】
【ラテン・コロニアルという罠】 【ジャズ再生の裏路地】  
自由気ままな独身時代
(延長11回)PIEGA現わる!
(延長12回)静かにしなさい・・・
(延長13回表)嗚呼、ロクハン!!
(延長13回裏)仁義なきウェスタン
(試合後会見)モノラル復権
掲示板
。。。の前に断って置きたいのは
1)自称「音源マニア」である(ソース保有数はモノラル:ステレオ=1:1です)
2)業務用機材に目がない(自主録音も多少やらかします)
3)メインのスピーカーはシングルコーンが基本で4台を使い分けてます
4)なぜかJBL+AltecのPA用スピーカーをモノラルで組んで悦には入ってます。
5)映画、アニメも大好きである(70年代のテレビまんがに闘志を燃やしてます)
という特異な面を持ってますので、その辺は割り引いて閲覧してください。



哀愁のヨーロピアン・ジャズ


【ヨーロピアン・ジャズ事始め】


 ジャズといえば、コンクリート・ジャングルで寂しくトランペットが泣いてる、または地下の酒場からドラムがドカスカ爆裂してくる、そういう抑圧された黒人の脂ぎった臭いが充満したもののように思われている。いや、私もそう思っていました。ところが20世紀も終わりになって、ヨーロッパのジャズが凄く面白いことにようやく気が付きました。ジャズが都会のカオスを演出するとすれば、今のヨーロッパほど混沌とした地域もないのでは?と思えてきたのです。

 しかしそれ以前にもヨーロッパのジャズ・プレイヤーに興味がなかったわけではありません。
 最初の波はジャンゴ・ラインハルト。そう戦前ジャズの大御所で、ジプシー・ギターの伝統を背景に、イギリスのユダヤ系ヴァイオリニストのステファン・グラッペリと強力タッグを組んで、ギターとヴァイオリン、ウッドベースだけのフランス・ホット・ファイブという五重奏団を組み、飛び切り上質なジャズを聴かせてくれる。有名な「ジャンゴロジー」というアルバムは戦後のイタリアで録音されたが、ここではエレキに持ち替え甘い最後の時間を記録している。
 ふたつ目の波はスウィングル・シンガーズで、60年代に活躍したフランスの男女8人組のアカペラ・コーラス・グループ。「ジャズ・セバスチャン・バッハ」というアルバムで、バッハの名曲をスキャットにアレンジして、シュビシュビダバダバとこれまた上品にスウィングする。

 このふたつのアルバムで私の場合は完全にノックアウトで、逆にいうとそれ以外のものをあまり受け付けないところがありました。キース・ジャレットで有名なECMレーベルさえ知らなかったのです。


【哀愁というキーワード】

 なぜかヨーロピアン・ジャズには哀愁という言葉がよく似合う。そう自分では信じている。多分、アングラな酒場をハシゴするというよりは、陽の当たるカフェでの恋愛のやりとりが似合うからだろう。その意味でヨーロピアン・ジャズは太陽の光を十分に浴びた健康的なものが多い。そこでの哀愁というキーワードの本質は、東西冷戦の終結後に現われた行き場のない叫びのようなものが、場末のジャズとして音になってからのような気がする。私にとってのヨーロピアン・ジャズの第三の波は1990年代から始まってるようだ。

 最初にその混沌の情況を知ったのはCDからではなく、なぜか映画からだった。ハンガリーのフェリケ・イボヤ監督「カフェ・ブダペスト」に出てくるロシア人サックス男のやるせないプレイが、ハンガリーの街をバックに静かに流れていく。それがなんとも切なく、そしてかっこいいのだ。その強烈な印象を頼りに「哀愁」というキーワードでヨーロピアン・ジャズを斬ってみたくなった。さてセンチメンタルでノスタルジアなヨーロッパ・ジャズの世界に旅立とう。

C Minor」(2006年)
ジョバンニ・ミラバッシ&アンドレィ・ヤゴジンスキ・トリオ
澤野工房/AS063

イタリアのジャズピアニストとポーランドのトリオが組んだ異色作で、ポーランド側のリーダーはアコーディオンに持ち替えての出演である。およそフランス・ミュゼットのような儚い感じがある一方で、サーカスの曲芸団のような不思議なバランスが異次元に誘う。舌に心地良いがアルコール度の強い酒で知らず知らず深酔いしてしまうような感覚。表面的なノスタルジーを装った辛辣なユーモアが聴き手をすっぽり包んでしまう音楽である。
プラハ」(2003年)
木住野佳子
GNPインターナショナル/UCGJ-7002

このCDをジャズという分類で割り切るのは難しい。ピアノ・トリオとストリングスという構成はイージー・リスニングのそれを想起させる。しかしストリングにモードを任せた止めどないトリオの流れは、あくまでも即興という枠組みのなかで展開されたもの。中世からの古い市街地の広がるプラハの街並みに触発された曲の凛々しいノスタルジアが心地良い。ストリングスの合間を縫って良質なベース音を繰り出すプラハのジャズメンのツボの押さえどころも聞き物。
Very Swedish」(2001年)
Sweet Jazz Trio
Spice of Life/SOLJ-0001

このトリオはコルネット、ギター、ベースという変わった構成をしている。このCDではスウェーデン民謡を取り上げつつ、全編mpの静かなインタープレイが展開される。しかしラッセ・トゥーンクヴィストが奏でるコルネット、この蜂蜜パイのような甘さは反則ワザである。1935年生まれというから録音当時65歳でもう既に老人なのだが、この哀愁ただよう甘美な色気は尋常ではない。
カフェ・ブダペスト」(1996年)
フェテケ・イボヤ(監督)・ユ−リ・フォミチェフ、イーゴリ・チェルニヴィケ、他
IMAGICAエンタテインメント/IMBC-136

この映画に出てくるロシア人サックス吹きのやるせない感じがたまらない。テクニシャンではないが朴訥(ぼくとつ)とした男の哀愁がただよう。アルトサックスが尺八のように無常を訴える。そう、時代が平安末期の混乱と似ているのだ。ソヴィエトという荘園制が崩壊した跡の風のすさびは、仄かな色気をともなって肌に伝わってくる。私にとってヨーロピアン・ジャズの哀愁の入り口となった作品である。映画が辛辣なだけに、にわかサックス吹きとぎこちない西欧被れがオーバーラップして独特のテイストが感じられる。
ケルン・コンサート」(1975年)
キース・ジャレット
ECM/UCCU5003

ケルンのオペラハウスで行われたピアノソロ・インプロヴィゼーション。延々と76分に渡り繰り広げられた演奏は、リハーサルをせずにケルンの街を歩きながら長い思索の後に一気に画かれたもの。身を切るような切なさと希望の光を求めようとする祈りに似た展開がいとおしい。ヨーロピアン・ジャズ録音でも画期的なECMトーンを明確に打ち出した名盤。
想いのままに…」(1962年)
ステファン・グラッペリ
アトランティック・レコーディング/AMCY-1150

ジャンゴ・ラインハルトのスタイルをパリのジャズメンと共に吹き込んだ録音。この人は大変長生きで、1990年にも日本に来日して美音を響かしてくれた。ジャンゴは当の昔に死んでいて、10年置きにこのような企画で呼ばれて録音するが、あまり嫌な顔をせず楽しんでいる感じがする。メロウなジャズ・ヴァイオリンの第一人者による、壮年期の円熟した演奏が聴ける点でも貴重な盤だ。アトランティック盤だが、音はフィリップスのような暖色系。
三文オペラ(抜粋)」(1930年)
ルイス・ルス・バンド、ロッテ・レーニャ他、オリジナル・キャスト
TELDEC/9031-72025-2

ヴァイマール共和国時代にブレヒト/ヴァイルの放った当時の問題作。ジャズ・イディオムでギャングと市民を巻き込み商業主義を皮肉った左翼思想のため、ナチスにより退廃芸術の烙印を押された。しかしこの情況が今のヨーロッパの危険な香りと同種のものだと判るのにそれほど時間は掛からない。若いロッテ・レーニャは蓮っ葉で向こう見ずなティーン世代の象徴を演じきっており、デビュー当時は非難囂々でこき下ろしのターゲットになった。スウィング、タンゴ、バラードなどがスナップ写真のように切り取られており、都会的で怪しげなものが全てジャズだった当時のジャズ感の典型が聴ける。



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【未完成のパズル】

 EUで統合されたヨーロッパといっても、実は多民族の寄合いで、そのテイストは巨大なエニグマ(謎)に満ちている。ヨーロピアン・ジャズをひときわ面白くしているのは、この多民族の対話というステージである。そのプレイに秘められたテイストは人生の流儀そのものを反映しており、それをアンサンブルで統合するのは知的なパズルに似ている。それがほぐれたとき、個人の力量を超えたところの愛情が芽生えてくるから不思議である。

 こうしたパズルを解く前に、フランス映画のヌーベル・ヴァーグが行ったジャズ的手法が忘れられない。最初は難解に思えた映画も、日常のハプニングを切り取っていくといつしかメモリアルな映画となってしまうことに、なんとなく感動したものだ。とはいっても、よく判ったというより体験したという類のものである。そのハプニングひとつひとつの映像が耽美的表現に満ちており、一場面一場面が走馬燈のように焼付けられていくのだ。それはスチール写真で全編が構成されたSF短編映画「ラ・ジュテ」で美しい最後を遂げるのだが。ハードバップから影響を受けたようなヌーヴェル・バーグだが、ヨーロピアン・ジャズはハプニングが水晶玉のように転げ落ちる瞬間を追求しているように思う。

 実はヨーロッパのジャズプレイヤーは、アメリカのそれに比べて音数が少ない。それを平凡とみるか、洗練とみるかで大きく印象が異なる。たしかにフランスのプレイヤーには洗練という言葉がよく似合う。先の先を読んだスタイリッシュな構築性まで魅せてくれる場面が多い。しかしもっとややこしいのが、北欧圏や東欧圏のプレイヤーの渋い印象である。プレイヤーが音数を制限することで、一音一音の意味を凝縮した感じに聞こえてくれば、ある種のもやもやが晴れた情況になる。つまり何を鳴らしたかではなく、何を弾かずに我慢したかの引き算が判らないと、ただ朴訥とした音楽が延々と続くだけである。それだけに聴き手に強い参加意識がないと困難な作品に度々出合うことになるのだ。それをジャズの閉塞と混迷と受け止めるか、混迷のなかから生まれた予定調和とみるかで、意見を真っ二つに分断する要素が残されていく。腕の無いミロのビーナス、2楽章で終わったシューベルトの交響曲、いつ終わったのか判らないサガンの小説、冗舌になる一歩手前で存在する美の追究は留まることがない。

黒猫の歩み」(2002年)
アヌアル・ブラヒム
ECM/UCCE-1027

どうしてこのCDを買ったのか全く憶えてない。多分ジャケ買いして後悔したので記憶からわざと抹消してしまったのかもしれない。内容はチェニジアのウード奏者と、フランス人のピアノ+ミュゼットという風変わりなコラボレーションである。4分音を含むウード特有の音調を頼りに、静謐な音楽がただひたすら流れていく。ECMの迷プロデューサー マンフレート・アイヒャー好みの音楽の最前線にあり、商業主義が全く付け入る隙の無い世界が収められる瞬間に感じる、この人のニヤリとしたユーモアはいつもながらブラックだ。ジャズがモードによる対話を楽しむ音楽だとすると、この演奏は崩壊ギリギリのモードが内省的に展開される彼岸の音楽だといえる。その生命が途絶える瞬間を録ろうと必死にマイクを構えているようなのがブラックと思える最大の要因である。やがてピアノの和音のうねりにまで耳を寄せると、深海に漂う夜光虫のような生命の営みに気付かされる。
Cosiderations」(2001年)
Jean-Philippe Viret、Edouard Ferlet、Antonie Banville
Sketch(澤野工房)/SKE333016

フランスのピアノトリオ作品だが、その建築にも似た構成力に驚かされる。ミニマルな打音の連なりから和音の壁に展開する手際はなかなかのもの。トリオ・ジャズの新世代を告げる非常にクレバーな演奏である。スタイッシュなスプラインで彩られたジャケも美しい。
スタンダーズ」(2001年)
トータス
Thrill Jockey/TKCB-72059

なんだアメリカじゃん?なんて言わないでほしい。トータスはProtoolを駆使したハードディスク編集を取り入れたプログレ・バンドで、シカゴ音響派なる抽象的かつ構成主義的なサウンドを繰り出すことで知られる。だがこのCDの演奏で展開されるリリシズムにあふれたエレガントなプレイは、タイトル名にあるとおりモードへの回帰を謳ったものだ。ジャスパー・ジョーンズ風のジャケが物語るように、彼らの時代のアメリカ的風景は既に様々な人の意見で装飾し尽くされた人口的なモノであり、音楽のスタンダードもまた単純なキー進行で言い表すことができる人工物である。そのルールにあえて巻かれようとしたのが、面白い効果を生みだしている。つまりスタンダードの要素だけを取り出してコンピュータ上で再構成された製品がこれなのだ。アメリカ的なミュージック・シーンからの決別を精神的に成し遂げた彼らの自負は、ヨーロッパ人以上にスノッブでエレガントに響く。
ムース・オウ・ショコラ」(2000年)
ベント・エゲルブラダ・トリオ
Berndt Egerblidt Purodaction(澤野工房)/AS017

スウェーデンのジャズピアニストによる晩年のリーダー作。とてもアットホームな北欧ジャズだ。それほど大袈裟に打鍵を叩かずにクールに収めていく演奏は、この人のリリシズムの現われで、心地よいベルベッドの毛布に包まれるような感覚に誘われる。ソフトタッチながら不動の信念が伺えるインタープレイが見事。プロダクションが個人名義なのは澤野工房の自主録音で、著作権をプレイヤーに全面付与したからと思われる。この馴れ合いのような雰囲気が独特のテイストを生み出した録音でもある。
ロゴス」(1982年)
タンジェリン・ドリーム
Virgin/7243 8 39445 2 1

ドイツが生んだ純シンセサイザー・バンドのロンドン公演。46分に渡る演奏は基本的にプログレだろうが、リーダーのエドガー・フローゼは元はフリージャズの演奏者なので、その進化形とみて差し支えないだろう。いや、そう聴くべきなのだ。リズムセッションはシーケンサー、それに3人の奏者がサウンドを吹き込んでいくスタイル。そのサウンドをキース・ジャレットのソロ・コンサートと聴き比べれば判るだろう。ふたつは同じ精神のうちに宿った双子なのである。翌年にフランクフルトで行った映画監督ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー追悼公演では、同じモチーフを使った違うバージョンが聴ける。この録音もステージ上で曲想を練るキーボーディストたちのの長い道のりに立つひとつの哩標石であったことが判る。

ジャズ・セバスチャン・バッハ」(1963、1968年)
スイングルシンガーズ
フィリップス/POCF-1033、POCF-1034

正確無比でクールな感触のアカペラ・スキャット。そこからパリの男女の群像が浮き上がる。1963年のレモンスカッシュのように爽やかな初録音から、1968年の枯葉を踏みしめるような冷めた表情の対比も面白い。人によっては前者の希望に溢れた歌唱が好きだろうが、私は断然後者のほうが好きである。スキのない男女がクールな仮面を被りながら恋の鞘当てをするのはスリリングでさえある。モンドリアン風の抽象絵画のジャケも美麗。



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【ラテン・コロニアルという罠】

 実はジャズのうえでラテン系のテイストは個人的に凄く好きである。カフェといえばボッサという印象さえある。このラテン・テイストはスペイン・ポルトガルの植民地文化で、逆にジャズの源流はイギリスの植民地文化である。最近になってモード変奏の取り扱いは、スコッチ・アイリッシュ移民の讃美歌に源流をもつという説が出ているが、こうした文化的なミクスチャーを乗り越えていくパワーがジャズの足場であるように思う。その意味ではラテン音楽もジャズも同じコロニアル・ミュージックなのだ。

コン・アルマ」(2003年)
チャノ・ドミンゲス・トリオ
ヴィーナスレコード/TKCV-35328

スペイン出身のチャノ・ドミンゲスの初リーダー作。既にいくつかのフラメンコ・ジャズのプロジェクトで脇を固めていたが、日本のヴィーナスレコードが正面から取り上げることになったのが本作。初っ端からラテンテイストが爆裂するのが聞き所で、最初の掴みが最高なら、その後のスタンダードに行ってもそのまますんなりと聴いてしまう。本来は鋭いリズム感覚で全体に無駄のない職人的な手応えをもつピアニストだが、他の2人がラテン・アレンジでやる気満々のようで抑えるのが大変そうだ。
タンゴ・ゼロアワー」(1986年)
アストル・ピアソラ
クラーヴェ/WPCS5100

ジャンルとしてはタンゴだがジャズ・ファンには是非聴いてもらいたい代物。全編が緊張感みなぎる演奏で、「天使のミロンガ」の優しくそして危険な香りは、十分にアヴァンギャルドなジャズのエッセンスに満ちている。ここではセンティメンタルという言葉が記号として飛び交う都会の空虚さも表現されていて、演奏者のパッションとそれを吸い取ってしまう都会の冷気とが常に交錯するスリリングさがある。ニューヨークに突然現われて地雷を置いてったような最高傑作。
イパネマの娘」(1963年)
アントニオ・カルロス・ジョビン
ヴァーヴ/UCGU7038

ボッサ・ノヴァ元年を飾ったジョビンの秀作。Withストリングスの伝統をもつヴァーヴが放った金字塔でもある。ジョビンの天性の飄々としたピアノが、かえって爽やかな風を運んでくれて全く無駄がない。以後、ジャズのボッサの関係はずっと蜜月が続いている。


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【ジャズ再生の裏路地】

1)機器のラインナップ


なぜかサッカー中継
なにせヨーロピア〜ン♪ですから


-私の試聴システム-
CDT CEC TL51X(相島技研改造)
DAC CEC DX51 mk.II
SAGE音響 STI-1227
DJミキサー RANE MP2016
イコライザー ORAM HD-Def35
パワーアンプ Boulder 250AE
スピーカー 富士通テン TD51

 ここでは私の試聴システムを紹介します。
 ジャズに興味を持ったもうひとつの切っ掛けは、私の所有している富士通テンのスピーカー愛用者にジャズ奏者が意外に多かったことです。マイケル・ブレッカー氏や木住野佳子さん、あとドラマーも数人いたかと思います。あと澤野工房の社長さんも。おまけでもらったTDサンプラーCDもなぜかジャズのオムニバスでした。私のシステム全体もやはりスピーカーの持ち味を生かすように編成されているので、自然とそういう感じになっていたのかもしれません。

 CDはCEC社のお家芸であるベルト・ドライヴ方式のトランスポートを、相島技研さんがクロック交換や基盤の制振処理などしたチューンナップ品。音調は柔らかいのに音の立ち上がりが鋭いという不思議なバランスのCDプレイヤーです。
 DACは2種類ありますが、CECはナチュラルでクール、SAGE音響は真空管式で表情がホットな感じです。
 DJミキサーはどちらかというと真空管のようなウォームなトーンで、かつマッシヴな吹き上がり感がありクラブDJに人気があるもの。
 イコライザーはスピーカーの音調を整えるもので、録音スタジオで使う精度の良いものです。位相歪みや音質劣化が少ないストレートな音がします。
 アンプはアメリカのスタジオ用で、中音域が太くてタイトな立ち上がりのするアンプです。
 スピーカーはフルレンジなので再生レンジは狭いものの、高域がナチュラルで100Hz〜5kHzの帯域で出音のタイミングがピッタリ合ってる。デザイン的には70年代のスペース・エイジを意識していて、とても変っています。

 このなかでヨーロッパ製の機器は無味着色のイコライザーのみ。他は外掘から和製、アメリカンと攻めている。これもそれなりに意味があるようで、入口と出口を日本製の清楚で生真面目な音で締めて、アメリカ製のミキサーとパワーアンプで内なるエモーションを演出し、イギリス製のイコライザーで音調の味付けを行う感じです。このような機材で奏でるヨーロピアン・ジャズは、クールな表情からパッションを燻し出す感じで、プレイに秘められた表と裏を画く感じがします。このアウト・フォーカスな雰囲気が私はとても好きです。


2)音調をパステルトーンに
 ヨーロピアン・ジャズがアメリカンと違うトーンを明確に打ち出したのは、ドイツのECMというレーベルが出した「ケルン・コンサート」(1975)からだと言われます。もちろん内容的にアメリカン・ジャズの亜流から独立したという意味もあるが、ここでは録音方式の問題に焦点を当てたいと思います。それはブルーノート・レーベルでジャズ・サウンドを完成させたルディ・ヴァン・ゲルダーの近接マイクとは異なる、遠目のマイク設置でホール感を一緒に収録するというものでした。この録音が出始めた70年代中頃は、ちょうどジャズそのものが衰退期にあり、黒人ミュージシャンの多くがファンクやソウルに活路を見出していた矢先のことで、当時は録音の存在そのものを巡ってジャズ演奏論の是非が議論されたそうです。ちょうどビル・エヴァンス以降のインタープレイが成熟し、ジャズが個人のスタンドプレーからトリオによるアンサンブルの妙技を聴かせる時代のことで、録音方式もアンサンブル全体を客観視することで演奏の質を味わおうとしていたと思われます。録音としてもモノラルのように凝縮した音から、ステレオによる自然なサウンド・ステージがマルチマイクで構築できるようになった時代です。こうしてヨーロピアン・ジャズは淡いパステルトーンのスケッチのようなものになり、プレイそのものの繊細さを拾いだす能力とサウンド・ステージの描きだしの客観性を必要とします。問答無用に押し迫るジャズ的な録音と少し距離を置くようになったというべきでしょう。

 しかし録音で使われたマイクは、ヨーロピアン・ジャズでもアメリカと変わりなく、ほぼ例外なくノイマン社の大型ダイヤフラムのコンデンサー・マイクが用いられていました(A図)。もちろんこれが全てのヨーロピアン・サウンドの源流です。このマイクはほぼフラットな特性のなかに中高域に幾分の輝きのあるキャラクターをもたせてありますが、これは精度の良い金属箔を用いたダイヤフラムを2way化することによって高域を持ち上げているからで、深く伸びた低音と明瞭な高域が得られ、大型ダイヤフラムだけがもつ、2kHzにあるリッチな艶はアナログテイストの代名詞として今も愛されています。一方で、低域の回り込みによるブーミーな膨れあがりや、中高域でのカサカサした音などを過敏に拾う癖もありました。
 この他に使われたマイクは、高域により繊細な輝きのあるAKG社、タイトな打楽器の音圧に強いセンハイザー社、ラテン系の打楽器に暖かみのあるベイヤーダイナミック社のマイクが使われたりしていますが、ベイヤーダイナミックス社以外はノイマン型の特性をもっています。いわばノイマン社の音調は古典落語のようなもので、この辺がスタンダード・ジャズと通じるところです。

 こうしたドイツ製マイクの特性を考慮してニュートラルな音調に整えるには、以下の方法が有効です。ひとつは実際の収録音圧と再生音圧の差分を補うためにラウドネス補正を掛けること、ふたつめはコンデンサー・マイクの近接効果をキャンセルして音調をスマートに収めることです。初期のHi−FiはB図のように音圧差のみを補正したカーブを使っていました。これに距離の差を加えてマイクに特徴的な近接効果(中低音が膨れあがる現象)を補正して聴感上フラットにしたのがC図です。(このことに関する仔細なデータはAES研究部会のBruce Bartlett氏の論文参照) 

 C図
から判ることは、一般にフラットなままの特性ではプレゼンスが強すぎて中高域がうるさく、逆に8kHz以上のアンビエンス成分が薄く感じられ音がくぐもることが判ります。実はヨーロッパ・トーンの最後の仕上げは、中高域の抑えた表情と高域の空気感にあり、両者のバランスが生命を分けるところがあります。B図のようにアメリカが中高域に強いアクセントがあるのとは反対ですが、これを逆手にとってステレオ初期のエラートやフィリップスは高域をブーストした(位相が反転するくらい)ブリリアントな録音が残されています。この方法で調整すると、柔らかさと天上の抜けの良さの両立が感じられ、アンサンブルの綾は絶妙になります。ヨーロピアン・ジャズの哀愁という色合いをさらにノスタルジックなパステル調にするのに、このノーマライズされた音調がどうしても必要です。





 ノイマン社製コンデンサー・マイクの正面特性
若干高域に癖がある




等感度曲線の110dB→80dB差分の補正カーブ
これはリボンマイクの時代に多いアメリカン・サウンド







ノイマン社製マイクの近接効果と
ラウドネス補正を考慮したカーブ




周波数 <80Hz 200Hz 800Hz 3.5kHz 6kHz >9kHz
  +0dB +2dB +1dB −4dB −3dB −2dB

私の聴感で決めたイコライザー補正例
 (100Hz以下の減衰はTD512の特性による)


3)ジャズ再生の王道の逆手を取る
 一般にジャズ再生の王道は生音の迫力を伝えることにあるので、イコライザー処理を加えずに録音し、上のB図のような音調で再生するのがベストです。JBLのD130とアルテック802Cとの組合せはそうしたサウンドの妙味を知らしめてくれました。しかしこれは同じ近接録音と近接試聴という関係で、音圧だけの違いで聴いているときに成り立つものです。もちろん機器と録音の時代の整合性が合うということもあるかもしれません。
 一方でヨーロピアン・ジャズの場合は、これに距離の違いが加わってきます。つまり近接マイクで録った音を少し離れて鳥瞰するという行為が生じるので、C図のような補正カーブになるのです。これは単純にはクラシック録音と同じです。

 最近はジャズの鋭角的なエッセンスを強化するアイテムは沢山あります。例えば高域の位相補正をして、パルス性の立ち上がりを鋭くしようとする機器があります。AphexのオーラルエキサイターBBEのソニックマキシマイザーなどです。あるいはコーン型に比べトランジェットの早いホーン型のツイーターを選ぶのもひとつの方法です。
 逆にヨーロピアン・ジャズの場合は、アンサンブルの綾を明確に出すためにトランジェットの要求されるのは中域のほうで、高域は残響に包まれたアンビエンス成分として拡散されます。高域のトランジェットが早くても、本来のクリアネスは保持できず残響の渦に呑み込まれるのです。それがヨーロピアンと思われる一方で、ジャズ的なエモーションの聴き取りにくくなる原因にもなります。これはこれで意味のあることですが、ここは裏路地に入ってみたわけです。
 ヨーロッパ製のスピーカーでも、最近のDynaudio、ATC、PMCなどはミッドレンジの開発から始まったメーカーで、3wayともなるとかなり通好みのものになりますが、こういうゴマカシの効かないところでのトランジェットの保証が卓越しています。私の場合は富士通テンTD512ですが、かなりコスト的な理由と折衷主義でこうなったという感じです。しかしツボを押さえてるものはあると思いまして、その辺が脱Hi-Fiの妙味ともいえます。

 あとDACをCEC(オペアンプ)からSAGE音響(真空管)に変えただけでも、ジャズ本流の熱血漢の湯気がメラメラと増えていくのが判ります。真空管は帯域毎の音調の変化が古典的で、中低域がファット、中高域が艶々、高域はサラサラという感じです。これは好みなのでしょうが、ヨーロッパのプレイヤーには必死な感じが似合わないように感じてます。つまりクールなオペアンプが良いのです。

 話は飛びますが、最近のジャズ・レーベルで最も元気のあるのは日本であり、澤野工房、ヴィーナスレコードなど、日本のジャズファンに応えてCD吹込みを行うジャズ・レーベルも少なくありません。それも演奏としては新規性はなくても、長年クラブ出演で磨いてきた熟年のジャズメンが日本でリコメンドされて、欧米で人気が出るという現象まで起きています。ここ10年の間に日本のジャズ・ミュージシャンも、つとに世界で活躍するようになりました。そういう意味でも日本にマスターテープが残る確率も高くなり、日本のオーディオの質を高めていくのではないかと期待しています。新鮮なマスターテープでプレスされるCDは、エンドユーザーに音楽の活力を伝えてくれる最も有効な手段です。

 紹介したCDはあえて新しい順番から並べました。これは普通のジャズ・ファンが辿る歴史を語るためのものではなく、常にジャズが今という時代あってのものと思ってのことです。新しい物好きというより、自分の生きている時間とへその尾がつながったものから関わるのがジャズとして健全と思えます。


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