20世紀的脱Hi-Fi音響論(シーズンオフ・トレーニング)


 我がオーディオ装置はオーデイオ・マニアが自慢する優秀録音のためではありません(別に悪い録音のマニアではないが。。。)。オーディオ自体その時代の記憶を再生するための装置ということが言えます。「昭和エレジー」は、時代の変化に隙間風が吹きすさぶ状況を、ジェンセンの安物スピーカーを元手に再生しようと模索する日常を書いています。
昭和エレジー
【安保以降オリンピック未満の恋愛カオス】
【電蓄以上ステレオ未満の胸騒ぎ】
【恋煩いの結末】
冒険は続く
自由気ままな独身時代
(延長戦)結婚とオーディオ
(延長10回)哀愁のヨーロピアン・ジャズ
(延長11回)PIEGA現わる!
(延長12回)静かにしなさい・・・
(延長13回)嗚呼!ロクハン!!
(延長13回裏)仁義なきウェスタン
掲示板
。。。の前に断って置きたいのは
1)自称「音源マニア」である(ソース保有数はモノラル:ステレオ=1:1です)
2)業務用機材に目がない(自主録音も多少やらかします)
3)メインのスピーカーはシングルコーンが基本で4台を使い分けてます
4)映画、アニメも大好きである(70年代のテレビまんがに闘志を燃やしてます)
という特異な面を持ってますので、その辺は割り引いて閲覧してください。


昭和エレジー

【安保以降オリンピック未満の恋愛カオス】


 恋とは、悲しくて、胸の痛いもの。そういう時代のあったことを、今さらどうやって思い出すことができるだろうか。表向きは、健気で何もないかのように振る舞っていても、声に出すのも恥ずかしい恋心は、内心嵐のように吹き荒れるのだった。このシリーズの「東京ラヂヲ・デイズ」「和モノといふをしてみんとて」の間に住む、コテコテの昭和という時代感について、これまたオーディオ談義に花を咲かせてみようと思うのだが、今風の恋バナのようにけして華やかなものではない。人間の欲望が渦巻く結構ドロドロした時代でもあったように思うのだ。それは戦前の欲しがりませんから、戦後すぐの自由博愛の精神を通り過ぎ、それまでリアルな戦争を前に我慢してきた欲情が、マグマのように吹き出してきたとでも言おうか。歌にはあまり出てこないのは、安保運動の全くの敗退であり、平和運動そのものがシラけていた時期でもある。じゃあ、なにをしようか?というと、踊って恋でもしようということなのである。昭和という激動の時代のなかで、この通過点を戦後復興のサクセスストーリーとして話すには、あまりにもおこがましい感じもする。この欲情に敬意をもって接するとしよう。

 戦後の日本を語るうえでアメリカ文化の影響を避けるわけにはいかないのだが、昭和33年から始まった日劇ウエスタン・カーニバルのように、ダイレクトに欧米ヒット曲のカバーで盛り上がろう!、というのも戦後の若者が古い価値観に縛られない主張ともなっている。つまり、野性的なリズムに乗って、包み隠さず感情を表すのが、戦後の若者が享受した自由の象徴ともなったのである。

1981年「サヨナラ日劇ウエスタン・カーニバル ~ 俺たちは走り続けている!」の立て看板
立ち見でにぎわう往時のステージ

 しかし、舟木一夫主演の「高校三年生」のような、フォークダンスで手をつなぐのも恥じらうような純情路線のほうが、ずっと広い年齢層に受け入れられていたとも言えよう。同じ年の青春映画「柔道一代」のような元祖スポコンのすがすがしさは、力道山などのテレビでもお馴染みのものだが、「高校三年生」で匂いたつ恋心というものには、まだ言葉になる前の欲情がみてとれる。平凡や明星のような芸能誌には、そうした乙女の恋愛相談が必ず載っていて、健全でありつつ恋を成就するにはどうすればいいのか、親に訊けない悩みが行き場を求めて彷徨っていた。1970年代の少女漫画をみたら、当時の人はどのように反応しただろうか? それまでは恋愛感情のはけ口を、具体的な形にすることを恥じらうと同時に、社会的にも禁じられていたというのが正しい。女学生が学校の帰り道で、今川焼を食べて歩いていたのを男子に見られた。それだけで恥ずかしいと思ったというのだから、何とも不思議な世界があったもんだと思う。それさえも大声で他人に打ち明けるわけにはいかない。恋心を他人に知られることなど、もっての他である。



 一方で、まだまだ経済的に不安定な社会のなかで、夜の歓楽街を背景に、真実な恋の在り方を問うことも可能だった。ティーンズの歌手がカバーポップスなら、20代の女性はナイトクラブのブルースが演出された。やがて演歌となって、お茶の間の欲情を成仏するまで、単なる欲情が純情に昇華されるのを、試行錯誤していたのだ。



 こうした純情と欲情の交錯したカオスが、昭和の恋心のよりどころなのではないだろうか。アイドルと演歌歌手のような棲み分けもなく、さりとてバブル期のように不倫を楽しむ余裕などはまだない。結婚までの18歳から25歳くらいまでの短い時期に急激にやってくる、苦しい恋心を胸に秘めて、本当のことは他人には話せない、この不器用な人間像が、1億人も揃いも揃って巣食っていたのが、昭和という恋愛カオスなのである。このようなカオスの出現は、東京オリンピックという成果主義の出現によって、段々と解消していくような気がするが、この欲情のポテンシャルがなければ70年代の歌謡曲は存在しないのも事実である。ひとときの平和のうちに芽生えた欲情を持て余す大人を、ダサイなんて言わないでほしい。

 1960年代のことを書くとき、演歌という歌謡ジャンルの誕生も書いておかなければならないと思う。1950年代の日本の歌謡曲は、戦後のGHQ検閲もあってか西洋音楽との折衷モノであって、結果的に日本的なものとなっても、特に日本的ということを意識して作ってはいなかったといえよう。ところが1955年以降になると、春日八郎「別れの一本杉」からはじめ、村田英雄「無法松の一生」「王将」、ペギー葉山「南国土佐を後にして」、島倉千代子「東京だョおっ母さん」、橋幸夫「潮来笠」、水前寺清子「涙を抱いた渡り鳥」、都はるみ「アンコ椿は恋の花」、北島三郎「なみだ船」「函館の女」、美空ひばり「柔」「悲しい酒」など、日本的な郷愁を誘う歌がヒットする。最初は望郷歌謡とも言われたが、集団就職という社会現象で、田舎から都会の工場に大量に就職した若者が多かったなか、望郷は人生の支えとして勇気を与えたのだ。この時代の日本レコード大賞の新人賞は、今でいう演歌が必ず占めたと言っても過言ではない。もちろんレコード大賞にもしっかり選ばれ、演歌が売り上げ、名声ともに「歌の花道」という存在感を示した。個人的には、1952年の美空ひばり「りんご追分」が演歌の草分けのような気もするが、田舎のリンゴ農園でのびのびと育つ無垢な少女という設定が、望郷とはシンクロしなかったのではないかと思われえう。苦労がにじみでなければ、演歌ではないのだ。
 とはいえ、当時の人の感覚はどれも同じ流行歌だった。かなりの音源がオリジナル歌手によりステレオ再録されているので、60年代の音は判りにくいのだが、残ったモノラル音源は意外にキッチリと録られている。ある意味、1950年代のHi-Fi録音のイロハが、お手本通りに生きており、ラジオでも良く通る声で響いたのではないかと思われる。多くの人はラジオから流れる歌に声をあわせたり、歌声喫茶に通って歌ったのであり、今のように鑑賞するためのものでは無かったようだ。この点は、初期の演歌がなぜ売れたのか、という本来のいきおいを理解する手がかりとなるだろう。


「明星」昭和36年9月号の歌本
坂本九と森山加代子

「月刊平凡」昭和42年2月号の歌本
都はるみと西郷輝彦


 さて、年代的に扱いの難しいのは、ビートルズ来日以前という括りにするか、フォークルの「紀元弐千年」以前にするか。1968年以降のエロ・グロ・ナンセンス路線は、もはや欲情が破裂した状況なので、再生機器を選ぶ必要はないだろう。問題はGSブームを含めるかどうかだが、カバーポップスを含んでおきながら、それは不平等だと思う。それと、ビートルズがラバー・ソウルを発表したとき、当時の女子たちは露骨な性表現にドン引きして、ファンクラブからも姿を消していったという。まぁ、家でアルバムを持っていると、親から何を言われかねない。反抗しても不良と思われかねない。この行き場のない乙女の純情と欲情のカオスを引き受けたのが、GSブームという感じがする。多くはロックバンドという路線を保って、追っかけのファンの黄色い声ばかり目立つのだが、一方でスローバラードに古臭い純情路線が残されているのである。「ブルー・シャトウ」「スワンの涙」「花の首飾り」「あの時君は若かった」などをみれば、その妖精物語にも似た儚い恋心がみてとれよう。愛を告白するときは直情的な「好きさ好きさ好きさ」「君だけに愛を」で迫ってきながら、実は純情さえも大切に見守る騎士たち。これが恋愛カオス以外の何者であろう? そして、この無茶振りなキャラ設定は空中分解するのも早かった。流れ星のように一瞬のうちに燃え尽きたのだ。



 かくして「秘すれば花」という中世の美学を戦後の庶民目線で考えた結果、欲情と純情の恋愛カオスが出現したわけであるが、全ての欲望に躊躇のなくなった21世紀において、人間に必要なパッションが何だったのかを考えるのは十分に有意義なことである。ここでのオーディオの役目は、こうした複雑なカオス状態を直感的に感じさせるためのツールなのだ。


【電蓄以上ステレオ未満の胸騒ぎ】


 1960年代末まで、レコードプレーヤーのことを誰でも「電蓄」と呼んでいた時代だった。正式名称がそうだったのだが、ハイファイがもてはやされて10年以上経っても、名前を変えて心機一転ということまでは考えなかった。変わったのは「ステレオ」が家庭に浸透して以降だった。レコード会社は1963年に早々に78回転SP盤の製造中止を決めたのだが、下のレコード生産量の推移をみると、それ以前からSP盤の売り上げは下降しており、代わって45回転EP盤がそれまで以上の売り上げを呈し、1965年までうなぎ登りで、それ以降も1980年まで順調な伸びを示していたことが判る。この圧倒的枚数を誇ったシングル盤は流行歌であり、33回転LP盤の大半はクラシック、ジャズのようなアート系音楽である。


日本国内でのアナログレコードの年間生産数量の推移
(日本レコ―ド協会資料による)


【テレビの歌謡ショウ】
 この爆発的な人気の理由は、昭和36年から放送開始あれた「夢で逢いましょう」「シャボン玉ホリデー」のような歌番組で、華やかなカバーポップスのほか、オリジナル曲も積極的に紹介され、テレビ発の流行歌も増えて行った。


 テレビの音声はモノラルながらFM波で、スペック上は15kHzまで収録できるが、ブラウン管テレビの水平走査回数15,750Hzとの干渉を避けるため、実質10kHz程度で丸められ、テレビ据付の楕円スピーカーの実力からすれば8kHz程度が限界ではないだろうか。しかし、生放送を主体にする当時の歌番組を、多くのビデオテープの記録を頼りに判断すると、少し印象が違うように思う。
 興味深いのは、長岡鉄男氏が「音楽の友」誌1967年4月号に寄稿した「オーディオ千一夜」で、原音再生についてテレビの音の合理性を述べている点だ。いわく…

  •  「家庭用の安直なアンサンブル型電蓄から出てくる声を、ナマの人間の声と聞きちがえる人はまずないでしょう。やけにボンボンした胴間声と相場がきまっているからです。ところが、アンプ部分にしろ、スピーカーにしろ、電蓄より一段も二段も下のはずのテレビ(卓上型で、だ円スピーカー1本のもの)の音声は意外と肉声に近く、となりの部屋で聞いていると、ナマの声とまちがえることがよくあります。」

 ここで、テレビの音が良い理由として以下のことが挙げられた。

  1. プログラム・ソース(音声電波)が素直
  2. アンプ、スピーカーとも低域と高域をあまり欲張っていない
  3. アンプは五極管シングルでシャリシャリした音になる
  4. テレビ用だ円スピーカーは比較的マグネットが大きく、foが高く、中音域での歯切れが予想外によい
  5. 一般にあまりボリュームを上げずに用いている

 結局、ローコストで合理的な拡声装置として、10~16cmのフルレンジを0.4m2の平面バッフルに取り付け、80万説により100~8,000Hzを支持し、低域は絞ってダンピングを良くし、中高域に明瞭性をもたせるということを提案している。(この頃バックロードホーンはじゃじゃ馬で素人には無理だと考えていたようだ)

1960年代のテレビの広告

【LP盤はとても貴重品】
 一方のLP盤については、日本レコード協会の年表では、昭和36年に「2トラックと4トラックのフィデリパックのカートリッジ規格決定」とあるので、
国産ステレオ・カートリッジがようやく製造できる体制に入ったということになるが、そのテコ入れも叶わずLP盤の売り上げは横ばい。理由は上記の歌番組や、昭和38年に開始されたFMステレオ試験放送で、カラーテレビ、FM受信機の購入による一種の買い控えであろう。
昭和41年以降にようやくLP販売枚数が急上昇し始めたのは、GSブームなどでポップスのLP製作が本格化したからではないかと思われる。それまでステレオは稼ぎ頭の父親の所有物であって、子供がおいそれといじってはいけないシロモノだったが、GSブームはこれをどうしても自分のものにしたい、そういう衝動を生み出すことに成功したのだ。その後のクラシック、ジャズの愛好家人口が、ステレオ所有者の15%程度というのは、おそらく妥当な値である。

 そうしたEP盤、LP盤の再生機器は、ほとんどの人はポータブル電蓄であり、さらに上位機種としてアンサンブル型ステレオがあった。ポータブル電蓄の公告、チラシはカラー刷りであり、売れ行きに最大限の効果を期待していることが判る。この頃のステレオ・カートリッジの多くはセラミック型であり、チャンネルセパレーションは精々10dB、漠然としたエコーでの音の広がり感と大きな差はなかったと思われる。これと並行してスプリングエコー装置付きのアンサンブル型ステレオがビクターから販売されたりしたが、モノラルからの移行期として過度的な状況だったことが判る。つまり定位感とか奥行き感とか、そういうものは誰も理解していなかったのである。おそらくモノラルがステレオになった、ただそれだけでリッチな気分に浸れるのだった。


松下電器デュエット(昭和39年)日立ステレオ電蓄(昭和40年代)



ビクターとコロンビアのアンサンブル型ステレオ(共に昭和39年)

  1963年にFMステレオの試験放送が開始されて、同じレコードが流れているのにラジオのほうが音がいい。そこで初めて自分のカートリッジの音の悪さに気付いた人も少なくなかったらしく、国産でもオーディオテクニカ AT-3、スタックス CPS-4、グレース F-8L、デンオン D-103などが優秀なカートリッジとして注目を浴びた。
 現在も製造を続けているデンオンD-103については、日本のオーディオ史の貢献に枚挙に暇がない。もともとデンオンは業務用機器に特化した会社だったが、民生機への進出はこのD-103が最初であった。それもNHKから流れるレコードの音が優秀なため、マニアの間で話題となり、一般市場での量販を請われるかたちで、1970年になってようやく実現したものだった。実際にはMC型の針交換サービスなど、様々な困難なことがあったにも関わらず実用化したのは、それだけの熱情が当時のオーディオ市場にあったからでもある。
 品川電機のF-8Lは、NHKと協同開発されたF-8Dの民生版だが、フラットな周波数特性でチャンネル・セパレーション30dBという高性能にも関わらず、無味無臭の音は、当時の評論家から「お茶漬けの音」と揶揄された。既にF-7カートリッジで、NHKのエンジニア達にブラインド・テストでFMステレオ試験放送のリファレンスに選ばれたという実績をもとに、F-8Lでも評論家にブラインド・テストをしてもらったところ、結果はF-8Lの圧勝。その後、バーチカル・アングルなど先進的な技術が、シュアーのV-15で真似されても臆することなく、価格で圧勝だったこともあり、自社の宣伝に加えてしまう余裕まであった。

  グレース F-8Lの広告(1967年)

 一方で、いくら優秀でも給料の1/4~1/3をカートリッジに費やせる人は少数派、まだまだ付属のセラミック・カートリッジが主流で、給料1ヶ月に達するオルトフォンやシュアーなどはまだまだ高嶺の花。カートリッジを交換しても、アンサンブル型ステレオでは、その良さを十分認識できなかった可能性もある。圧電式はイコライザーアンプがいらないということもあって、カーブ設定もいい加減なものであったし、チャンネル・セパレーションも10dB前後のつたないもの。ピンポンステレオのように2chが明確に分かれていないと、買い手はステレオとモノラルの差が判らなくてクレームの対象になったのではないだろうか。ステレオとは豊かさの象徴であり、リビングに置いてあるだけでインテリアとして映えるものだったが、ステレオ本来の立体感というものが一般ユーザーに理解されるまで、マルチトラック、サウンドステージなど録音方式そのものから見直してようやく普及するにいたったのである。逆説的には、1960年代はステレオ録音が本来のモチベーショオンを発揮していなかったということもできる。

【スピーカー技術は昔から一流】
 唯一、スピーカーだけは1950年代から輸出用に開発された安価なユニットが豊富にあり、フルレンジまたは同軸ユニットに自作箱を付けることで、Hi-Fi規格を十分満足できた。放送局モニターではNHKお墨付きのP-610A、民生品でもナショナルのゲンコツ(1954年)からフォステクスFE-103(1964年)まで、日本のフルレンジスピーカーは安価で素直な音を出すということで、海外でも人気が衰えなかった。アンプはEL82(6BM8)、EL84(6BQ5)、6V6が主流で、スピーカーも10W以下のアンプで十分に鳴らせた。こうしたユニットの価格は、上記のHi-Fi用カートリッジよりもはるかに安かったところをみると、逆に当時のカートリッジの重要性が判る。




日本の素直なフルレンジ:
ゲンコツ(1954年)、三菱P-610(1960年)、フォステクスFE-103(1964年)


 こうしたステレオ装置のもつ印象は、科学に裏打ちされた健全な精神を現わしている。ここで、オーディオに与えた影響が大きい、1960年代に来日した大物ミュージシャンの質の変換にも注目してみよう。1963年のマントヴァーニ・オーケストラ、1966年のビートルズが、その大きな転換点にある。1963年はカスケード・ストリングが電気的な合成音ではないかという疑惑が払しょくできすにいて、結局は演奏会場でレコードと全く同じ音がするように入念な調整がなされた。レコードの売り上げのほうが、実際の演奏者の実力を規定してしまった例でもある。ビートルズのほうは、その後のGSブームも牽引して、女の子が競ってレコードを買うようになった、というのが新しい現象だった。
 実はマントヴァーニのようなムード音楽が当時もっていたセクシーの概念は、今では誰も理解できないだろう。洋画のロマンスのように、美男美女が描く恋愛の理想形は、デートに必須のものだった。それがビートルズのように、女の子が理想の男の子を追い回すようになったのだ。最初はそれが社会現象として、大人からはカオスに映った。しかしそれまでの大人は、夕闇の潮騒のように美しいストリングの響き、哀愁あるオーボエの無言の歌に、行き場のない恋愛感情を投影していたのである。私には、この秘められた欲情のほうが、よっぽどカオスに感じるのである。
 この時代を生きた人なら誰もが抱いた恋心のカオスは、どうやって再現すればいいのだろうか? 健全を隠れ蓑にしたエロスを見つけ出すのはかなりの難題であり、その前後の時代の価値観では到底計り知れない。別れ際に表情も変えずに、さりとて別れを惜しむようでもなく、ただ無言のままじっと立ちすくんでいるように思われる。本当に切ない恋ものがたりなのである。

【カセットテープという小さな巨人】
 さて、これらのオーディオ機器を1968年以前に絞らなければならないのは、ラジカセの出現が次世代のオーディオの在り方を根本的に変えてしまったからである。 カセットテープは1962年にフィリップスが開発して、1965年に特許を無償提供した結果、一気に広まった。特に1966年頃はアメリカでカセットレコーダーがブームとなり、日本のメーカーがOEM生産で本家のフィリップスを大きく引き離した、1967年にパナソニック が米国でラジカセRQ-231を発売。1968年にはアイワが国内でラジカセTPR-101を発売し、ラジカセはオーディオ商品の定番となった。ラジオはAM、FMともにモノラルだが、好きな番組を繰り返し聴くのに適していた。


国内初のラジカセ アイワTPR-101の広告(1968年)

 最初のカセットレコーダーの性能は十分ではなく、会議記録、英会話レッスンに適しているとされ、音楽用としてはオープンリールが使われた。屋外に気軽に持ち運べる小型レコーダーといえばナグラやソニーの携帯型オープンリールが既にあり、十分にHi-Fi規格を満足するものだった。専用録音スタジオをもたなかった多くのレコード会社は、音楽ホールを借りてアンペックス製のポータブル録音機で出張録音というのは当たり前だった。
 当時はAM放送が主流だったが、カセットテープはそれ以下の音質、あえて言えば電話回線なみだったといえる。しかし、カセットテープの気軽に交換できる堅牢なパッケージ構造は、その安さも重なってアマチュアの間で人気が出た。ブートレグ盤などでファンがライブを収録したものも存在し、多くは録音状態が極悪なので市場にほとんど出ないが、最近は公式盤としてリリースされるようになった。
  
初期カセットテープのダナミックレンジ(1976年):エルカセットとの比較でかなり分が悪い

 カセットをHi-Fi用途として使おうと最初に目論んだのは、1968年に発売された日本のTEAC A-20ステレオカセットデッキだった。当時は酸化鉄テープ(TYPE-I)を使用し高域は10kHzが限界だったが、後の日本製カセットデッキの先鞭を付けた。カセットテープの品質は1966年から製造していたTDKが、1968年に戸田工業の針状粒子材料を使った「SD(スーパーダイナミック)カセット」を発売し、翌年のアポロ11号に使われるなど、世界でトップの信頼を勝ち得た。この頃になると、アメリカでの日本製品のステイタスは確立しはじめ、日立のバッテリー駆動式のステレオ・ラジカセなど、製品開発でも先進的な発想を形にしていったことが、LIFE誌、PLAYBOY誌のような一般誌でも評価された。


TEAC A-20ステレオHi-Fiカセットデッキ(1968年)

日立mini-stereo TRQ-222(1968年)


 こうして、1960年代のラジオ文化はラジカセというアイテムに封印され、録音スタジオでのモニターにもオーラトーン 5Cという小型フルレンジが重用されるようになった。それまではフラットなスピーカーで調整していたが、オーラトーンによりリバーブを上品にまぶした1970年代の歌謡曲が醸成されたのである。つまり、素顔は同じなのに化粧が上手になった。1968年以前の録音は目鼻立ちがぼやけて古いと思われる原因でもある。それと同時に歌謡曲がオーディオマニアから敬遠される原因ともなっている。


【春のホトトギスは鳴かぬとなりにけり】
 ここで、1970年代のサウンドの特徴をはっきりさせるために、録音スタジオで多用された小型モニタースピーカー、オーラトーン5Cに注目してみよう。1958年の創立時からあったが、クインシー・ジョーンズなど大物プロデューサーを筆頭に、デラックスなダンス・ミュージックのサウンドを次々と生み出してきた。しかしこのオーラトーン、実質150~15,000Hzのカマボコ特性であり、しかも1.5kHzに大きなピークをもつ独特の周波数特性をしていたのだ。



Auratone 5Cと周波数特性


 ところが、この周波数特性の裏返しは、シュアー社が定番ボーカルマイクSM58の特性そのもの。いわゆるライブステージのサウンドを家庭用オーディオで再現しようとする方向に向いたものと考えられる。これに弾みをつけたのは、ビートルズが仮想ライブステージを想定した「マジカル・ミステリー・ツアー」のような不思議な録音で、偶然とはいえ、ここでロックにもサウンドステージという概念が広がったのだ。ノイマン社のコンデンサーマイクは1950年代から定番だったが、シュアー社のボーカルマイクのような押しの強い音に仕上げるための方便が、オーラトーンでのバランスチェックの秘策だったと思われる。



上:オーラトーン 5Cの逆特性、下:Shure SM58マイクの特性

 もうひとつ重要なのは、このピークの理由は、人間の外耳の共振から来ていることだ。外耳の共振の研究は、1940年代に補聴器の分野で進んでいた。(米国特許 US 2552800 A) 外耳の長さは25mm~30mmとされ、開管とした場合の共振周波数は、3kHzと9kHzにピークを生じさせ、この周波数を敏感に聞き取るようになっている。現在ではダミーヘッドでヘッドホンの周波数特性を補正する曲線として、1995年にはDiffuse Field Equalizationという名称で国際規格IEC 60268-7になっている。ここでは、シュアー社のボーカルマイクには、ステージ上の歌手の声があたかも近くで話しているように聞こえるよう、ラウドネスを付加していることに注目したい。


  B&K社のダミーヘッド4128C HATSとDiffuse Field Equalization補正曲線(参照サイト

 このように、ライブステージでのシュアー社のボーカルマイクの威力を知った1966年を境に、ポップスの録音にも心地よい艶が乗るようになってくる。つまり手本とすべき生音が、ライブステージでのスピーカーを介した電気的音響に統一されたのだ。この仕上げの時期に出現したのが、JBLの巨大PAシステムであり、現在のロック・サウンドがほぼ完成形になったことを示すモニュメントともなった。ここでもマイクの生音を快適に拡声するため、D130のプロ仕様2135はラウドネスを付加しており、この頃からポップスの録音は、録音スタジオでラウドネスを付加するようになった。


Grateful deadのWall of Soundライブ(1974年) JBL業務用2115の周波数特性

 逆に1965年までの録音は、脚色抜きのマイク音そのままのものが多いようだ。当時の小型PAともいえるジュークボックスは、ジェンセンのワイドレンジユニットを使っていたが、これまた強烈なラウドネスを付加している。なんとなく日本のアンサンブル型ステレオと似てなくもないが、出てくる音はずっとワイルドだった。


Rock-ola社のModel 100 ステレオ・ジュークボックス(1962年)


Jensen P8Rの周波数特性:強力なラウドネス

 同じ傾向は、ドイツ製大型ラジオにも言え、カリッと乾いた高域に癖のあるサウンドは、後にジャーマン・サウンドと揶揄されるようになった。この1940~60年代のラウドネス補正したスピーカーは、1970年代に録音側でラウドネスやリバーブを効かせた録音と相性が悪いことは言うまでもない。高域の癖は分割振動の多さであり、高域をドス黒い墨で塗りたくったようになるのだ。一方で、新しい素直な特性のスピーカーでは、化粧のない1960年代以前の録音が曇って聞こえるのだ。同じことは、録音スタジオでも起きており、録音ミキサーが真空管からトランジスターに移行したとき、マルチトラック化によるノイズが減った代りに、響きの天井が低くなりパンチも無くなったという。いわゆるソリッドステートの洗礼とも言われた現象であるが、理由は真空管のもっていた共振が重たい石に変わり、想定してた倍音が全く出なくなったからである。結局、鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス、の勢いでリバーブが多用されるようになったのだが、その変わり旧来の共振の多いオーディオ機器も邪魔者扱いされるようになった。電蓄からステレオに移行したとき、ただ立体音響になっただけでなく、そこから欲情も消えていったのである。その後の歌謡曲がよりセンセーショナルな歌詞で色仕掛けをしてくることは、時代の流れとは言え、オーディオも時代の申し子なのだと言うことが言えよう。そして流行歌のもっていた欲情と純情のカオスもまた、ドブ川に蓋をするように忘却されていったのである。


【恋煩いの結末】

 1960年代に入って、レコードの売り上げが急上昇したが、この時代の音楽の試聴はラジオ、テレビというメディアの力が圧倒的だった。そういう背景で考えるとBTS規格のロクハンをラジオ球で鳴らすのが時代性に合ってると思ってた。しかし、どこかモヤモヤした漫然とした鳴り方でピンとこない。

最初にもくろんだラジオ風システム

 何が足らないのか? それが今回のテーマとなってる、歌声の端々に見え隠れする欲情なのである。おそらく当時は、そうした欲情を皆が心に秘めていたので、もやもやしたままで何も言わなくても、十分に気持ちは判ったのだ。もはや半世紀も経ってしまうと、刺激のない寡黙な人に感じてしまう。実際、今でも名曲とされる歌には、少し刺激の強い歌のほうが好まれる傾向が避けられない。ここでは、はっきりと言葉には出さないが、言葉の切り際やちょっとした言い回しで真意が見え隠れするような、そうした些細なニュアンスを大切にして再現したい。昭和30~40年代の恋心の肉体的な衝動を、オーデイオにおいて実体化するという壮大なビジョンのなか、悟りを開いたのは以下のようなことだ。

  1. スピーカーの大きさは、人間と等身大でなければ、肉体的な衝動は実体化しない。
  2. 肉体的な衝動はフィックスドエッジのスピーカーでないと出ない。
  3. 時代的に分割振動、リンギングがないと、録音に潤いが出ない。
  4. ボーカル域を中心に絞るため、ライントランス等で100Hz以下、10kHz以上をカットする。
  5. ボーカル再生に焦点を絞るため、モノラルにミックスして試聴する。

 現状のシステムの概要は以下のとおりである。







システム全体の周波数特性とパルス波応答(斜め45度より計測)


【それとなくため息と嗚咽を意識させる】
 主役は、1947年開発のジェンセン社の30cmエクステンデッドレンジ・スピーカー。現在はエレキギターのアンプ用スピーカーとして、イタリアでライセンス生産してる復刻版なので、1万円前後でリーズナブルに購入できる。トーキー用の励磁型とまではいかないが、かつてのライブステージを盛り上げた簡易PAの端くれで、パリッとした反応、ジャリジャリとした分割振動など、今の時代のスピーカーとは異なる方向性のサウンドである。このシステムの元のコンセプトが1960年前後に製造されたジュークボックスなので、得意としているのはシカゴブルース、ロカビリーの類であって、クラシックやジャズでは粗が目立つ。しかし、反応の機敏さ、リバーブのような潤いのある倍音など、オーディオ的には不純と言われる要素が多分に含まれており、これが流行歌の秘めた恋心のもやもやした霞をはらってくれるのである。結果として現出したのが、昭和の恋愛カオス。こんなに悶々とした気持ちを秘めて暮らしていたのかと、驚くことこの上ない。

 1940年代に設計されたフィックスドエッジスピーカーには、2つの特徴があって、ひとつは胸声の躍動感をレスポンス早く再生してくれること、もうひとつは高域の倍音成分が豊かでそれ自体が楽器のように鳴ることである。

 25cm以上の規模のフィックスドエッジスピーカーは、メカニカルなバネの勢いも手伝って、中低域の反応がすこぶる早い。それが胸声をこもらせずに、ボーカルの明瞭な発音を聴き取らせてくれる。深いため息のように胸声の情感が滲み出てくる瞬間は、そこで話しかけてくるかのような親密な告白に満ちている。
 当時の主な試聴機器がラジオだからと、盆栽のように小さくしちゃダメだ。スピーカーという名の通り、人間の大きさと等価に考えるのが基本である。10cmだと唇、20cmだと顔面、30cmだと胴体、という風にリアルさが変わる。今回30cmを使っているのは、ボーカルの腰に伝わるスイング感まで再生するための必須条件である。それでいて、フィックスドエッジの中低域の反応がとても素早い。ボーカルの息遣いが弾み、生ドラムはドカッと響く。この快感は10cmでは出てこない、とてもフィジカルな体験だ。

 ジェンセン C12Rは、斜め45度からサインスイープ波で測ると平坦な特性だが、パルス波で計測した高次倍音は非常に大きい。ちょうどプレートリバーブのような機能が、スピーカー自身に備わっていた。一見、ド派手な感じもするが、1960年代までの録音は、この色艶が加わることを前提にサウンドを決定しているので、高次倍音=分割振動無いと興覚めしてしまう。



Jensen C12R単体の特性(上:サインスイープ、下:パルス波)

 高次倍音こそが昔の録音には必須な要素で、後のハイファイスピーカーから排除されたものである。よく古い録音が高域不足と感じてイコライザーで補正するが、イコライザーの補正は楽音と関係のないノイズも一緒に増強するが、高次倍音は中域の楽音と連動した音にのみ反応する。

【キャラメルのように甘い出会い】
 これに加え、昭和32年から製造しているサンスイ・トランスを噛ませている。初期のトランジスター回路に組み込むために製造を始めた小型トランスで、現在は橋本トランスが製造している。ST-17Aは、終段プッシュプルの手前で位相反転・分割するドライバートランスで、カタログの特性をみると、低域は500Hz辺りからロールオフ、高域は4kHzから徐々jに減衰する。本当の意味でラジオ用素子である。オーディオというより設備用の交換部品なので、モノタロウなんかで売ってたりする。



 ところが、繋げてみてビックリ。どこまでも甘い音色にウットリ。キャラメル一粒大のトランスから、中域のジュワ~とした旨みが、どこまでも溢れ出てくる。周波数特性は中域がぽっこり盛り上がっているのが判るが、肝心なのはロールオフしてるはずの高域は、トランスから発する磁気歪み、つまり高次倍音で溢れかえっていたのである。甘美な音の理由は、この倍音にあった、昔、キング・レコードがプレスしていたロンドン・レーベルの音のように、飴色に包まれた黄昏の時間である。昭和の甘美なラジオの音の心臓部がこんなところにあったとは驚きである。これにはほんとに参った。


【騒がしい雑踏で想い人の声だけを】
 周波数をボーカル域に絞るというのは、古い流行歌では絶対に必要なことだと思う。そしてオーディオマニアにとってはイバラの道でもある。例えば、ボーカルマイクにしても、そこまで帯域は広くない。低域は100Hz以下を落とし、高域は8~10kHz程度までが精々で、それでも十分にハイファイに聞こえる。見掛けのスペック競争に踊らされると、いつのまにか恋人のため息を聞き漏らすことになる。その結末は推して知るべしである。

 
RCA 44リボンマイクの特性

Shure SM58マイクの特性


 日本語を含むアジア系の言語では、喉音という母音でのニュアンスに多様な意味合いをもたせる性格があって、実声の200~1,200Hzに対し、喉音は500~2,500Hzに分布する。つまり2wayだとウーハーの帯域であり、ツイーターでいくら頑張ってもダメなのだ。昔のスピーカーがこの領域に強い再生能力をもつのは、PA機器としてのパフォーマンスを求められていたからで、ジェンセンのC12Rなどはまさにそういうためのユニットだった。


 逆に欧米言語は、子音での伝達が重要で、2~6kHzにニュアンスが集中する。当然、楽器の言語的なニュアンスも高域に集中するわけで、その強調点が日本語の伝達機構とずれているのである。クラシックやジャズで、こうした楽器のニュアンスに特化したのが、従来のオーディオ評価であり、発展史のうちで見落とされた部分だと感じている。
 私のシステムではフィックスドエッジの大口径スピーカーをベースに、アルテック社の開発した小型フルレンジをツイーター代りに5kHzから足している。このスピーカーも構内アナウンス用のものだ。元のアイディアは、ちょうどJensen P12Rが開発された1940年代に、Q8Pというコーンツイーターが製造されており、その組み合わせを想定している。ツイーターにはこれよりも、より繊細なドームツイーター、迫力あるトーキー用の大型ホーンなど、より性能のいい材料はいくらでもある。ただ色々と聞き比べてみて、結局コーンツイーターに戻ってくるのは、この帯域の反応を鈍らせることで、母音のニュアンスをツイーターでマスキングしたくないためである。人間の耳は、中高域に敏感で、先にそっちの音が出ると、そっちに気を取られる性質がある。よくボーカルのニュアンスを繊細に再生するために、2~6kHzのザワザワした音を強調することが好まれるが、流行歌の言葉にならない欲情は、母音の帯域である200~2,500Hz付近に集中する。そのために、軽い振動板の高域の反応を、大きなコーン紙の中低域よりやや遅れて出るくらいの比重の差をつけてあげなければならない。それではじめて、欲情が肉体的なレベルから発していることは理解できるのである。頭では判っていても抑えられない衝動が、ちゃんと再現できることが第一条件だ。


【あなたひとりに心を向けて】
 モノラル試聴でガラパゴス化を決め込んで5年ほど経ったが、一番の収穫は歌謡曲の再入門である。モノラルにすることで一人称の語り手として歌手が部屋に存在し、30cm級にすることで声を発するボディが実体化した。いわゆるスピーカーが自立したタレントとして部屋に存在するシチュエーションを構築できたのである。ちなみに我が家のモノラル・スピーカーは、ちゃんと一人前に回転椅子に座っている。これで手をだしてお酌をすすめられたら、と思うと何だか恥ずかしい。完全にどうかしてしまってる。

   

胴体と唇をもったスピーカーの概念図 (ごめんなさい、フィッツジェラルド様)

 最初からモノラルで収録された音源に関しては、そのままとして、ステレオ音源をモノラル化する(ミックスする)にはどうしたら良いのか? これは色々な人が悩むことである。以下にその方法を列挙すると
1.変換コネクターなどで並列接続して1本化する。
2.プッシュプル分割のライントランスで結合する。
3.ミキサーアンプで左右信号を合成する。

 このうち1の変換コネクターは、一番安価で簡単な方法なのだが、誰もが失望するのは、高域が丸まって冴えない、音に潤いがない、詰まって聞こえるなど、ナイことずくめで良い事ないのが普通である。この理由について考えてみると
1.ステレオの音の広がりを表す逆相成分をキャンセルしているため、響きが痩せてしまう。
2.人工的なエコーは高域に偏る(リバーブの特徴である)ため、高域成分が減退する。
3.ステレオで分散された音像が弱く、ミックスすると各パートの弱さが露見する。
4.逆に中央定位する音は音量が大きく太った音になる。

 また、2のライントランスでの結合は、この辺の合成がコネクタよりはアバウトで、逆相の減退を若干抑えることができる。一方で、ムラード反転型回路が出回って以降はトランスの生産がほとんどされなかったため、かなり古いトランスに頼らなければならない。つまり状態の良いパーツは高価だし、相性の良いものを見つけるまでに断念することも多い。

 そこで、第3のミキサーアンプでの合成だが、これも左右の信号を単純に足し合わせるだけでは、あまり意味がない。そこで逆相成分の取り込みと周波数のバランスを考えてみた。

【B方法】逆-擬似ステレオ方式
 高域と中域のバランスを、±6dBで左右互い違いにする方法で、擬似ステレオの反対の操作である。1965年以降に4トラック・レコーダーが使われはじめた頃からの録音にも相性が良い。
 2.5kHz付近は音のプレゼンス(実体感)をコントロ-ルし、10kHz辺りはアンビエント(空間性)を支配する。1970年を前後して、この空間性が著しく発展し、かつEMTのプレートリバーブなどでブリリアンス(光沢感)も加えるようになったため、この帯域抜きでトーン・バランスをとることが難しくなっている。人工的なリバーブは逆相で打ち消しあうので、高域がカマボコに聞こえるのである。もうひとつは単純なモノラル化は、中央定位させる中低域のバランスに隔たって、全体に下腹の膨らんだ中年太りのようなバランスになる。このため、低域を両chとも下げる必要があるのだ。
 この時代になると、FM放送の恩恵で、段々とステレオ機材のグレードについて云々言われ始めたことで、録音のほうもそのグレードに見合ったものが要求されるようになった。ちょうどバンドの楽器を、オーケストラのように配置するようなことが始まった初期の段階になる。この場合は、全体のトーンがサウンド・バランスと密接に関わっているので、単純に左右バランスを崩すと、全体のトーンが少しおかしくなるようだ。そこで左右の中高域のトーンをずらすことで、モノラルにしたときの交通整理をしてあげると、見通しの良い音に仕上がる。


【普段は堅気ななサラリーマン】

 メインアンプにデノンPMA-1500REを使っているが、これはシステム全体のなかでは平常心を保つ引き締め役である。というのも、このクラスのデノン製アンプは質実剛健で、私に言わせれば「NHKの音」。余計な低音の膨らみ、艶やかな高音、臨場感あふれる音の広がりなど、とかくミドルクラスの民生用アンプに抱きがちな期待を削ぎ落した、JIS規格品のような鳴り方である。喩えていえば、スーツ姿でそつなくニュースを読み上げるアナウンサーのようだが、歌謡番組では司会者として歌手に華をもたせる名脇役である。この進行役のお陰で、個性的なキャラクターを集めたあげくに御ふざけになりやすい、我がシステムの引き締め役になっている。
 このステレオアンプを、チャンデバで分割したモノラル・マルチアンプに使っているのが、本当の贅沢である。このマルチ駆動による効果は、音の濁りがなく澄み渡ってくる、というよりも、出音のタイミングが崩れない安定感につながる。タイミングが合うというのは、ウーハーやツイーターのどちらかにエネルギーが流れ過ぎたりせず、出てくる音のキャラクターが安定するということで、それがアタック音にいたるまで歪まないということに繋がる。音が澄み渡るという表現が適切でないのは、モノラルで聴いているため臨場感とは無縁なため、全ての音像が前面に出てくるためである。
 CDプレイヤーは、CEC社のベルトドライブ式をずっと使っている。音の立ち上がりが自然で、細部がどうのというより、全部の音が一体感をもって鳴るのが自分の好み。それに加えてデジタルフィルターにスローロールオフが付いている点で、シャープロールオフがピシッと立ち上がり感の強いお祭り状態なのに対し、スローロールオフはやんわり諭すかのような縁側の静けさがあり、恥じらいの恋心に合ってるのは後者である。特性をみても14kHzから徐々にロールオフしていて、20kHz付近で-2dBとなる。それ以上はデジタルノイズになるが、パルス性の音がノイズで和らぐのが判る。ジェンセンのスピーカーと、デンオンのアンプで中域のソリッドな部分を担保してあるので、これ以上骨っぽくする必要がない方向性でもある。



デジタルフィルターのロールオフ特性(NPC SM5843A)
上:シャープロールオフ、下:スローロールオフ

 色々と書いたが、歌手の息遣いが判るように中低域のタイミングを高域と揃えること、それでいて胸声が沈まないように高次倍音をピリッと利かせること、ボーカルのために100Hz以下、10kHz以上を容赦なく切ること。これらをバランスよく制御ができるようなったら、桃源郷がまっているわけだ。



 流行歌の時代区分が昭和30年代をまたいでいるため、必ずしも1960年代だけというわけでもない。私自身は西暦で時代区分のできるのは1975年以降だと思っている。それまでは昭和10年間で区切ると便利なのだが、オーディオ史は西暦の10年単位で物事が進んでいる。この辺が少し事情をややこしくしている。
 以下は試聴盤。私自身はアナログ盤は面倒なのでCDしか聴きません。あしからず。

昭和ビッグ・ヒット・デラックス(昭和37~42年)

日本コロムビアと日本ビクターが共同で編纂したオムニバスで、レコード大賞ものなども外さず入っていながら、モノラルがオリジナルのものは、ちゃんとモノラル音源を収録している点がポイント。青春歌謡にはじまり、演歌、GSまで網羅して、個性的な歌い口の歌手が揃っており、ボーカル域での装置の弱点を知る上でも、この手の録音を再生するためのリファンレンスとして持っていても良い感じだ。
ウエスタン・カーニバルの時代(昭和33~37年)

東芝レコードの看板となったウエスタン・カーニバルの舞台を彷彿とさせるアーカイブである。こちらもオリジナル録音を集めていて重宝する。後半には越路吹雪、朝丘雪路、水島弘、坂本九、ジュリー藤尾など、正統派の歌手もそろえていて、聴きごたえも十分。
なつかしの昭和ラジオ・テレビ番組主題歌全集(昭和22~50年)

テレビのアーカイブの多くは性能の悪いビデオテープで保存されている場合が多く、音質的に腐っても鯛のように思っている人も多いだろうが、本当の実力はそういうものじゃなかった、と確信させてくれるオムニバス盤である。あの頃感じたトキメキは、決して若い多感なだけではなかった。放送アーカイブで、ここまで品質の良いものは他の国でも珍しいと思う。テレビ自体は、全体がバラエティーのようなものなので、地方の雑貨店のように何でも陳列するのが常套だが、当時の人が思い描いた憧れの衣に隠れた、欲情のカオスを知るにはうってつけである。今の人だと「11PM」と「時間ですよ」のテーマ曲のどっちもオシャレと感じるだろう。当時はネグリジェと割烹着くらいの違いに感じたのだが。テレビも時代と一緒に倒錯していたのだ。
ABCホームソング大全(昭和27~46年)

大阪ABCラジオが毎月1曲づつ放送したオリジナル曲で、NHKのみんなのうたに近い趣向のものである。民放への許可が、報道と教育という大前提があるため、内容的には健全なものが多いが、歌ってる歌手が、淡谷のり子、フランク永井、中村メイコ、ザ・ピーナッツ、ボニージャックス、加山雄三など錚々たるメンバーである。放送用のオリジナル音源のため年代に関わらず全てモノラルだが、かえって録音年代によるサウンドポリシーの違いがなく安定しており、新旧の歌手の芸風を知るには興味深い。
美空ひばり 船村徹の世界を唄う1(昭和31~39年)

二十歳前後の美空ひばりのマドロス歌謡が中心なのだが、おそらく帰還兵との関係もあって、この主題が頻繁に取り上げられたのだろうが、なんとなくハワイ、ブラジル移民とも重なり、裏声を多用したハワイアンの影響ともとれるのだ。この裏声を自由に操る七色の声が、美空ひばりの真骨頂ともなった。これはその修行時代から「哀愁波止場」での完成にいたるまでの記録でもある。それにしても若い娘時代の美空ひばりの歌声は、ほのかな色香が漂い、この年頃にしか出せない魅力にみちている。
ゴールデンベスト 西田佐知子(昭和35~45年)

美人の歌手は大成しない、若い歌手といえばカバーポップスという定番を覆し、安保闘争期のBGMともなった刹那な「アカシアの雨がやむとき」からキャリアが始まった異色の流行歌手。大半はナイトクラブ系の歌を歌っているはずなのだが、清涼な気分にさせられるのは、変に色気を振りまかない、この人ならではの気品があってのことである。
サン・レモのゆかり(昭和40年)

伊東ゆかりがイタリアのサン・レモ音楽祭で入賞したのを記念して編まれたアルバム。外国人歌手の来日が比較的容易になったなかで、あんまり反響が良くなかったのと、この後の「小指の想い出」の大ヒットに隠れがちだが、歌そのものはアナログ感に溢れた肉厚な感じで良く録れている。あっさり歌っているようで、端々に情感をたたえた歌い口は、実に再生の難しい部類に入る。愛する男は押し倒してでもモノにするようなイタリア女とは違う価値観があるのだと、実に昭和的な歌い方だと確信する。
ザ・タイガース 1967-1968 -レッド・ディスク-

GSブームを牽引したザ・タイガースの赤盤。ビートルズの後に続けと、ともかくチャラチャラしたサウンドで収録されたので、イミテーションの度合いも強い。フラワームーブメントの変態感覚はずっと抑えたまともなバンドだが、それでも十分にカオス状態が推しはかれる。マスメディアが求めた男子アイドルグループと、大人へと成長していくロックバンドとの葛藤が、切なくも甘辛い響きを帯びている。しかし、メンバーたちのその後の芸能界での活躍をみると、その悶え方ひとつとて無視できない。テレビ中継のアーカイヴなど、よくみつけたものと思うが、通常のロックバンドよりも露出度が高く、テレビ局との関係も良好だったことの裏付けでもある。しかし、当時の熱狂的な状況はスタジオ録音では絶対に理解できない。ロックとは作品ではなくパフォーマンスなのだと思い知らされる。
ジス・イズ・ミスター・トニー谷(昭和28~39年)

問答無用の毒舌ボードビリアンの壮絶な記録である。同じおちゃらけぶりはエノケンにルーツをみることができるが、エノケンがいちよ放送作家のシナリオを立てて演じるのに対し、トニー谷は絶対に裏切る。この小悪魔的な振る舞いを、全くブレなくスタジオ収録してくるところ、実はすごく頭のいい人なのである。昭和39年は、テレビ番組「アベック歌合戦」の司会で再ブレークした「あなたのお名前なァんてェの」をネタにした歌と、従来の芸風を青島幸男がまとめた「ガッポリ節」。
ピーター、ポール&マリー・ライヴ・イン・ジャパン 1967

来日した海外ミュージシャンでは、ビートルズがダントツの人気だろうが、このフォークグループの日本公演のほうがダントツに面白い。ひとつは、演奏中の観衆の驚くほどの行儀良さで、それでいてギター1本の弾き語りだけで思う存分歌うことのできる環境が整っていることである。それが素直に3本のマイクで脚色なく収められている。同じグループのアメリカ公演の騒々しさに比べると、そのアットホームぶりに驚くのである。そして極めつけは、日本語でのMCを務めた中村哲の渋い声で、ギター前奏で語るポエムがすでにカオス状態に入っている。そしてポール氏の声帯模写に入るとバラエティー満載。オマケは舞台写真での毛糸のワンピース。どれもが別々のアイディアから生まれた断片であるが、ひとつの現象として観衆が受け容れている。礼儀正しく知性のある国民性、という外面だけを見つめるには、このカオス状態を理解するには程遠い。自然であること、自由であること、何かを脱ぎ捨てる瞬間が詰まっている。
高田渡/五つの赤い風船(1968)

フォーククルセダーズの原盤管理の利益を元手に立ち上げた会員制レコード配信レーベル「URC(アンダーグラウンド・レコード・クラブ)」のLP第一号である。高田渡の録音は、毎日放送スタジオでのファンを集めてのミニライブ風の収録で、当時の街頭でのフォークゲリラを彷彿とさせる雰囲気が残されている。社会派のフォーク歌手ウェス・ガスリーのことが浮かび上がるが、ガスリーがとてつもないおしゃべり(歌よりトークのほうが数倍長い)ということはまだ知られていなかったらしい。この頃のフォークは、ラジオの深夜放送で目覚めた若者文化の象徴ともいえるが、同じ時間のスナックで鳴りひびいていたムード歌謡のナンセンスさと比べれば、世界の全ての事象の資本化(グローバリゼーション)という流れに乗るのか反るのかという思考よりは、どちらも放送では流せない反社会的なものであり、この時代の変態趣味がセックスを境に分断されていたことが判るだろう。演歌=世に抗う滑稽なもの、という視点は、同じ酒場の表看板と裏路地のようなものである。その裏路地に住まうアパートの住人たちの声に耳を傾けてみよう。


 あと買わなきゃいけないと思ってるのが、「夢で逢いましょう」のアーカイブ、クレイジーキャッツのベスト盤などがある。ムード歌謡はまだまだ不勉強である。

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