20世紀的脱Hi-Fi音響論(延長13回)

 我がオーディオ装置はオーデイオ・マニアが自慢する優秀録音のためではありません(別に悪い録音のマニアではないが。。。)。オーディオ自体その時代の記憶を再生するための装置ということが言えます。「嗚呼、ロクハン!!」は、一度未練を断ったロクハンで、モノラルのサブシステムを拡張しようと奮闘する、いい加減なオーディオ体験がズルズルと綴られています。
嗚呼、ロクハン!!
【装置の見直し】 いざ対決→
【モノラル化の仕方】
【RCAの隠し子?】
【BBCよ、応答せよ】
自由気ままな独身時代
(延長戦)結婚とオーディオ
(延長10回)哀愁のヨーロピアン・ジャズ
(延長11回)PIEGA現わる!
(延長12回)静かにしなさい・・・
(延長13回裏)仁義なきウェスタン
(試合後会見)モノラル復権
掲示板
。。。の前に断って置きたいのは
1)自称「音源マニア」である(ソース保有数はモノラル:ステレオ=1:1です)
2)業務用機材に目がない(自主録音も多少やらかします)
3)メインのスピーカーはシングルコーンが基本で4台を使い分けてます
4)なぜかJBL+AltecのPA用スピーカーをモノラルで組んで悦には入ってます。
5)映画、アニメも大好きである(70年代のテレビまんがに闘志を燃やしてます)
という特異な面を持ってますので、その辺は割り引いて閲覧してください。



嗚呼、ロクハン!!


【装置の見直し】

Lepai LP-2020A

 最初のコンセプトは「ながらラジオ族」でしたが、ミニワット管で何でも鳴らすのは限界があるので、アンプの見直しをすることといたしました。
 そこで煩悩の赴くまま、激安デジタルアンプ を使ってみました。機種はLepai社のLP-2020Aで、2500円という価格がお遊びのような感じですが、いわゆる車載用アンプをACアダプターで駆動するというものです。ICアンプのように過大な放熱板もいらないため、こうした手軽な方法で十分ということになるようです。
 許容入力3WのPE-16Mに対し、20Wの出力は十分すぎるほどで、しかもPE-16Mは軽いコーンで作られているスピーカーは、アンプへの負荷も少ないため、こうした組み合わせは意外に良いような気がします。

 結果はPE-16Mが改めて、局用モニターの血筋であることを認識した次第です。いわゆるオーディオ的な鳴り方ではないのですが、どこまでも自然体で情報を伝達する感じで、すっかり気に入りました。

 結局、システムは、以下のようになっています。



 CDプレーヤーは、モノラルシステムがメインに昇格したので、CEC社のものに、ダイナミック・レンジの制約からコンプレッサーを噛ませて、途中に古いUTCの軍事用マイクトランスで音調を整えています。
 このトランスは規格では10kHzまでしか保証していませんが、それ以上は緩やかにロールオフして伸びているようで、音はピアレスのようなキレがない代わりに、布ドリップのコーヒーのように太く甘い中域を抽出します。実際にPE-16Mの周波数特性は10kHz以上は怪しいので、むしろ自然な鳴らし方になるのではないでしょうか。
改めて放送モニター用のフルレンジの伝統を掘り起こすと、PE-16Mは30°まで首を振ると、Altec 400BなどのHi-Fi以前の特性と非常に似ていることが判ります。つまりボーカル領域の要点を踏まえたうえで、高域の拡大を図っているのです。


音声モニター用フルレンジ(上:PE-16M、下:Altec 400B)

 ちなみにPE-16Mを実測してみたところ、素の正面特性は1〜4kHzに山をもつ辛めの音であるのに対し、私の好みの試聴位置とイコライジングでは500Hzピークに緩やかにロールオフする特性でした。要するに、単に斜め45°だと中高域の張りが残るところを、高域を絞ることで、中域との繋がりを滑らかにした感じです。

PE-16M(軸上)

PE-16M(斜め45°&高域絞り)

 しかし、このBTS規格は侮れませんな。のんびりした顔つきでも、何でも平然な顔をしてニュートラルにこなしてしまう。ある種の職人のような腕裁きを感じるのです。



【モノラル化の仕方】

 話題を戻して、ステレオ音源をモノラル化 する(ミックスする)にはどうしたら良いのか? 最初からモノラルで収録された音源に関しては、そのままとして、これは色々な人が悩んできたことです。以下にその方法を列挙すると
  1. 変換コネクターなどで並列接続して1本化する。
  2. プッシュプル分割のライントランスで結合する。
  3. ミキサーアンプで左右信号を合成する。
 このうち1の変換コネクターは、一番安価で簡単な方法なのですが、誰もが失望するのは、高域が丸まって冴えない、音に潤いがない、詰まって聞こえるなど、ナイことずくめで良い事ないのが普通ではないでしょうか。この理由について考えてみると
  1. ステレオの音の広がりを表す逆相成分をキャンセルしているため、響きが痩せてしまう。
  2. 人工的なエコーは高域に偏る(リバーブの特徴である)ため、高域成分が減退する。
  3. ステレオで分散された音像が弱く、ミックスすると各パートの弱さが露見する。
 2のライントランスでの結合は、この辺の合成がコネクタよりはアバウトで、逆相の減退を若干抑えることができます。一方で、ムラード反転型回路が出回って以降は、ラインレベルで分割するトランスはほとんど生産されなかったため、かなり古いトランスに頼らなければいけません。つまり状態の良いパーツは高価だし、相性の良いものを見つけるまでに断念することが関の山です。

 そこで、第3のミキサーアンプでの合成ですが、これも左右の信号を単純に足し合わせるだけでは、あまり意味がなくなります。左図のように、左右を2:1程度の割合で混ぜることで、上記の問題をほとんど解決されることが判った。通常は左チャンネルを大きくすれば問題ないようです。
 この方法でミックスした場合、広がりは遠近感で表現されるため、例えばオーケストラで言えば、1階左側から聴くような感じになります。これはこれで、自然なのではないのでしょうか? 古楽器の録音でも、楽器のニュアンスとエコー成分との分離がしっかりして、奏者側に近いバランスで展開する。決してゴリゴリした感じではなく、潤いも十分に出ます。
 ロックで言えば、ベースとドラムの上にしっかりボーカルや各楽器が乗る、という音楽構造が安定するため、バンド間の駆け引きが手に取るように聞けます。これはステレオだと、仮想音像のキックドラムがドンヨリ広がり、ベースとリードギターのピンポンゲームを鑑賞するような感じになることが多いのです。

 モノラル化するメリットを挙げると
  1. 試聴位置での音像の乱れがなく、好きな姿勢で聴ける。
  2. 音の骨格がしっかりして、楽器の主従関係が判りやすくなる。
  3. 楽器の出音とエコーがよく分離して、楽器のニュアンスが判りやすくなる。
 これらの効果は、音楽の表現がより克明になる方向であり、ステレオ効果による雰囲気に流されないで、演奏家が格闘する姿も炙り出します。どの演奏もかなり切れ込みよくなりますが、かと言って雰囲気ぶち壊しというわけでもない。優雅さも十分に表現できるのですが、それを保持するときの演奏者の緊張の入れ替えが脈実に伝わります。 では、モノラルでいけないワケは、どこにあるのだろうか? 実は何もないのです。演奏家のパフォーマンスを表現するにあたって、モノラルで十分です。いや、むしろモノラルであったほうが良いことも多いのだと、あえて言おうじゃないですか。



【RCAの隠し子?】

 この組み合わせで驚いたのが、古いアメリカの放送録音と非常に相性が良いことです。いわゆるアメリカン・サウンドのように輝かしくというよりは、どれもまじめなスーツ姿で丹精に鳴らす。ここら辺がギャップの激しいところなのですが、トスカニーニ、ベニー・グッドマンといった面々の黄金時代を、そのまま今放送しているような感じで聞き流せます。この時代の録音を、録音状態のことを気にせずにニュートラルに聞き流すのは至難の業ですが、それを易々とこなしてしまうのですから、相性は大変すばらしいものと言えるでしょう。

 よくよく考えてみれば、BTS規格は戦前からRCAの技術を追いかけており、戦後もやはりアメリカから技術供与を受けていたということからも、基本的に東海岸系のしっとりしたRCAサウンドなのです。その丹精さの源は、収録に使われたRCA 44型リボンマイクにあります。日本も東芝がコピー製品を供給しており、BTS規格のルーツが結びついていることが判ります。
 
RCA 44リボンマイクの特性

ラジオドラマ「君の名は」の収録風景(昭和27年)

 もうひとつは、45°オフセットしたPE-16Mの周波数特性は、戦前〜戦中のRCA御謹製のモニタースピーカーMI-4400との特性と近似していることです。なんという偶然でしょう。日本でRCAよりウェスタン系のビンテージ機器が好まれるのは、RCA系の音は常に身近にあって、特別に金を注ぐほどの価値が見出せなったと考えられます。やはり欧米人は目鼻立ちクッキリという印象そのままなのでしょう。


RCA MI-4400B(1947年にBBCが計測)

PE-16Mの実測(斜め45°&高域絞り)

 さらに驚いたのは、スクラッチ・ノイズへの耐性です。これはおそらく、デジタルアンプのA/D変換部がスクラッチ・ノイズのようなパルス波をフィルタリングしている可能性のあることです。変わりに持続音が浮かび上がってくるため、古いアセテート録音もクリアに響くのです。


 とはいえ、アメリカの古い放送録音なんて。。。思う方も多いと思いますが、当時のラジオが娯楽の牽引役を買って出ただけあって、結構面白いタイトルがあるのです。

ベニー・グッドマン カーネギーホール・コンサート(1938年)

この録音の良さはちょい聴きでは全く判らない。RCA 44型マイクで収録したと解説しているが、実際はよりタフな設計でナロウレンジの50型であるし、録音は会場からCBSまで引き延ばした電話回線を使っている。このため、マイク配置は成り行き任せ、録音レベルはデコボコで統一感がない等、失敗に近いものであった。一方でこの時代には珍しく、放送後一度お蔵入りになった後、1950年になって初リリースされた経緯をもつ。芸術音楽としてのジャズの地位を決定付けた、ジャズの歴史のうえで非常に重要な位置をもつ録音でもある。この激しいギャップが、この録音との付き合い方を難しくしているような気がする。まぁ気楽にラジオで聞いてみてください。
チャイコフスキー P協奏曲 ホロヴィッツ/トスカニーニ/NBC響(1941年)

若いホロヴィッツがトスカニーニ翁を煽ること煽ること。まるでサーカスを見ているようで爽快である。多分、例のごとく音符が楽譜より多くなっているような気がするが、競争曲ともいうべきスリル満点のアクロバットぶりは、オリンピックで世界記録を出した瞬間の興奮と同じ種類のものだ。ブルース歌手には悪魔に魂を売ったクロス・ロード伝説があるが、ロシアのピアニストにはそういう逸話がないのかしら? と思うほどに取り憑かれた打鍵ぶり。ホロヴィッツ選手9.99の演技をとくとご覧あれ。
ワーグナープログラム トスカニーニ/NBC響(1941年)

RCAから抜粋盤が出ていて、そちらのほうが有名だが、こちらはプログラムの全編を収録したもの。ピアニッシモから始まるローエングリン前奏曲は当時の録音技術の限界で、お蔵入りとなった理由も判るような気がする。しかし観衆に咳ひとつ立てさせずに、この演奏を成し遂げたのは、まさにこの時代のトスカニーニへの敬意の表れでもある。メルヒオール、トローベなど、メトロポリタン歌劇場で活躍した歌手への熱狂とは、また違う感触であることが判る。
ヨゼフ・ホフマン ゴールデン・ジュビリー・コンサート(1937年)

メトロポリタン歌劇場での伝説的ピアノ・コンサートの記録。まだカーティス音楽院で教育者としての道に専念していた頃のため、普通のコンサートに比べ開始がややけだるい感じもあるが、実はホフマンはこの大観衆を前に、昔ながらのサロン風の流儀で堂々と演奏していることが判る。それだけに一層貴重な記録でもある。復刻はホフマン協会から信任を受けた由緒あるもので、アコースティック録音以来あまり録音機会に恵まれなかったホフマンの千金一隅のチャンスでもあった。
スウィンギング・ウィズ・ビング!(1944-54年)

ラジオ・ディズの看板番組ビング・クロスビー・ショウの名場面を散りばめたオムニバス3枚組。1/3はアセテート盤、2/3はテープ収録であるが、レンジ感を合わせるために高域はカットしてある。このCDは多彩なゲストと歌芸を競い合うようにまとめられているのが特徴で、アンドリュース・シスターズ、ナット・キング・コール、サッチモ、エラ・フィッツジェラルドなど、肌の色に関わらずフランクに接するクロスビーのパーソネルも板に付いており、文字通り「音楽に人種も国境もなし」という言葉通りのハートフルな番組進行が聴かれる。まだ歌手としては売り出してまもないナット・キング・コールにいち早く目を付けて呼んでみたり(ナット自身は遠慮している様子が判る)、壮年期はやや力で押し切る傾向のあったサッチモのおどけたキャラクターを最大限に引き出した収録もある。この手の歌手が、何でも「オレさまの歌」という仰々しい態度を取り勝ちなところを、全米視聴率No.1番組でさえ、謙虚に新しい才能を発掘する態度は全く敬服する。利益主導型でプロモートするショウビズの世界を、彼なりの柔らかな身のこなしで泳ぎまわった勇姿の記録でもある。
バートランドの子守歌 クリス・コナー(1954年)

ラジオ風のDJではじまるアルバムで、こちらはラーキンスらのトリオ・ジャズとのセッションのみを集めたもの。なぜかエラ&ルイよりも聴く機会が多い。ラジオ風録音のリファレンス的な要素が多く、最初の男性アナがくぐもらないこと、ピアノの高音とのバランス、ボーカルのフェチ度など、チェックするべき項目はほぼ備えている。歌唱スタイルはすでに完成されたもので、当時流行したアレンジをひねくり回す亜流の歌い方とは一線を画いている。
アラン・フリードのロックンロール・バーティ(1950年代)

ロックンロールの名付け親、名物DJのアラン・フリードが催したコンサートの様子を収録したもの。オムニバス形式で、有名無名のバンドが次々紹介される。既に名声を得ている人もいるわけだが、フリードの頼みとあって1曲だけの演奏でもキッチリ歌ってくれる。しかし、若者の歓声の凄さは半端ではなく、当時のダンス狂の片鱗を伺わせるに十分である。

 これらの放送録音が長らく評価されてこなかった理由は、以下のようなものがあります。
  1. 放送そのものが一過性のものであり、スポンサーと利権を分かち合っていた。
  2. 戦時中ということもあって、アーカイヴの扱いが乱雑な場合が多い。
  3. Hi-Fi以前の収録のため、ステレオ時代に「悪い録音」の代表として隠避された。
 しかし、この演奏の輝きはどうでしょう? 長生きしてステレオで再収録した人たちでさえ、この時代特有の熱気までは吹き込むことができなかったと言えます。



【BBCよ、応答せよ】

 BBCと言えば、オーディオの原点のように言われるくらい、日本ではその影響力は大きい。しかし、影響度が増してきたのはLS-3/5aのようなステレオ・スピーカーが出てから、すなわち1970年代に入ってのことである。おそらく、レッド・ツェッペリンの1969年スタジオライブの収録あたりから、各国にディスクを配信して、商業的にもかなり飛躍したのではないだろうか。
 それまではどうか? というと、ビートルズだってラジオ番組をもっていたが、海外で内容が知られるのは解散してからずっと後のことである。つまり、1960年代までは国放送の権威のほうが、実際の名声よりもずっと大きくて、大したことないと思われていた節がある。
 このようにこき下ろしておいて、実は私はこの時代のBBC音源を結構買っているのだ。英国では、レコード会社との紳士協定のため、DJなる職業に多くの規制が掛けられたが、それを逆手に取って、リリース前の未完成の新曲をミュージシャンの要求通りに演奏させるなど、意外にエキセントリックな番組も組んでいた。実際にその記録は、ミュージシャンの生の声を伝える立派なドキュメントに仕上がっており、その辺はやはり報道局を基調にする手堅さが光っている。

 しかし、やはり難点がないといえば嘘になるだろう。その幾つかを列挙してみよう。
  1. いわゆる編集なしの一発録りであり、エフェクターの付け録りもあまりしない、スッピンの演奏である。このため、響きは質素で乾いている。
  2. 編集作業を経ないまま、生の声を届けようという報道姿勢は、良いほうにも悪いほうにも傾く可能性があり、いわゆる演奏にムラが多い。
  3. スタジオ・ライブで、しかも未発表の新曲を披露することが多いため、パフォーマンスとして密室で考え込んでいるような傾向が否めない。いわゆるマニア向けのコレクター・アイテムのように言われることが多い。
 こうした欠点にも関わらず、何だかんだ言って音源を集めているのだから、どうかしているのだろう。そして、実際にどう扱って良いのやら、持て余し気味だったのも事実である。

 しかし、とうとうこのパンドラの箱を開けるときが来たようだ。ロクハン+デジアンの組み合わせが、ムラの出やすい放送録音を、元のニュートラルな状態に戻してくれたのだ。音が新鮮とか、新録音のように若返ったとか、そういう嘘八百を並び立てない、その着地点の正確さが、まさにBTS規格の賜物である。
 こうして達観すると、1960年代のブリティッシュ・ロック史を最前線で中継していたことが判るし、未発表の曲を流さなければならないという規制を見事に利用した、文化的な強靭さと広がりがあったことが確かな記録として残ったことに感謝せねばなるまい。

Live at the BBC(1962〜65)
ザ・ビートルズ

BBCでのみ使われたColes 4048というリボンマイクで、しかも宙づりのオフマイクで録られた番組収録は、EMI正規録音に比べるとカビくさいモゴモゴした音で、軽トラックでAMラジオを聞くようなノスタルジックな録音。いくらコレクターズ・アイテムとはいえ、普通の人ならガッカリである。
ロクハン+デジアンから聞こえるのは、放送局内でガラス越しに音声チェックしているような音。つまり、ビートルズが壁の向こうに来ていて演奏してます。だいたいそんな感じ。これを、ながらで聞き流す。なんと贅沢な時間なのだろう。ロカビリー中心でカバー曲を演奏するサービス精神旺盛な頃の若きビートルズ。ロックをイギリスのお茶の間に紹介したパフォーマンス・バンドでもあった。
Cream BBC Sessions(1966〜68年)
クリーム

新しいヘヴィ・メタルというジャンルの誕生秘話である。BBCでのセッション録音は、まだアイディア段階の未発表曲も含む、実験的な要素が多いもので、ギター、ベース、ドラムの3人がガッチリ組んで繰り出すサウンドは、エフェクターを噛ませずに乾いた生音をそのまま収録している。このため、普通のステレオで聴くと、収録毎の音質の違いなどが気になり、なかなか音楽に集中できない。正規録音のあるなかで、長らくお蔵入りしていた理由もうなずける。ともかく一発勝負の収録だったことの緊張感が先行しながらも、サウンドを手探りで紡ぎ上げていく感覚はBBCセッション独特のものだ。今の時代にこうした冒険的なセッション収録は許されないことを考え合わせると、オーディオも含めて音楽業界がビジネスにがっちり組み込まれたことの反省も感じる。
BBCセッションズ(1968〜72年)
デビッド・ボウイ

ジギー・スターダスト・ツアー前の混沌としたアイディア段階の歌を収録した不思議な録音集。詩をかなり造りこんでいる感じで、アレンジは二の次。つまり、スケッチ・ブックを持ち込んで、プラン説明をするデザイナーのような感覚でスタジオ入りしたのだ。それを放送したBBCの器の大きさは、この時代だからこそできたと言えよう。「ジギー・スターダスト」というバーチャル・アイドルが徐々に生成されるドキュメンタリーとしても面白く、ボウイならではの役者ぶりが成長する過程も聞ける。
Live in London(1972〜73年)
ジュディ・シル

この時代には浮いては消える儚い歌手が沢山いたが、ジュディ・シルもそうしたフォーク・ゴスペル歌手のひとり。この録音は、アメリカでのデビューから一段落して、セカンド・アルバムへの繋ぎの時期のスタジオ・ライブを収録したもの。正規アルバムが重厚なオケをバックに含むなど、厚化粧な造りなのに対し、こちらはシンプルな弾き語り。むしろシルの繊細な声使いがクローズアップされ、完成された世界を感じさせる。
当時のイギリスは、ハード・ロック、サイケ、プログレなど新しい楽曲が次々に出たが、そういうものに疲れた人々を癒す方向も模索されていた。21世紀に入って、その良さが再認識されたと言っていいだろう。



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